一緒に山に登って以来、私が真波君を避けることもなくなった。真波君がいつも通り過ぎて、私はどう接して良いかわからなくなっていたのに。宮原さんに聞いた話では、私の悩み事について、何か出来ることは無いかとだいぶ考えてくれていたらしい。とても嬉しくて胸が苦しくなる。きっと他意はないのだ。誰にでも平等に笑顔を向けるみたいに、真波君は純粋な優しさから私を誘ってくれたのだろう。
「次のコンクールに出す写真、決まった?」
「ちょっと、写真のネガどこやったっけ? 誰か知ってる人ー!」
「ケースごと、右の棚にうつしたって言ってなかったっけ」
「コンクールに出す写真三人って、人選どういう基準?」
「校内展示で上から三人でしょ? 特別枠もあるらしいけど。写真は同じでも変えてもいいって」
「まあ、学校で選外だったら出す価値ないからね」
ばたばたと、せわしなく飛び交う会話。自転車競技部のインターハイが終わって、真波君達は来年に向けてもう練習をしているのだけれど、今は余裕があるから、また山に行こうと言っていた。けれど私たちは、これからなのだ。秋にあるコンクールに向けて出展する写真を選ばなくてはならない。そのためには校内展示で金賞、銀賞、銅賞、いずれかに選ばれなくてはならないのだ。先輩方の会話を聞きながら、私は現像を終えた写真を机上に並べた。見事に山と自転車ばかりだ。撮った写真には他の景色や友人たちのものもあるが、それとはフィルムが別だったので、新たに現像したのは主にロードレースの写真だ。練習中の写真は東堂先輩を中心に三年の人が多いけれど、インターハイで撮れたのは、数枚だった。最終日しか応援に行っていないし、自転車なんて瞬く間に通り過ぎてしまうので、シャッターチャンスなんて言葉通り一瞬なのだ。
「さんは、写真もう決めた?」
「! い、いえ、まだです」
部長に話しかけられて、びくりと肩が震える。この写真は、当日まであまり見せたくない。それでも隠すわけにもいかないのでそのままにしていると、部長は写真を覗きこんで、いいね、と言った。そしてすぐまた他の人のところへ行くのを黙って見送る。確か彼女も人物像を撮るのが好きだった気がする。
写真と一口に言っても、その趣向は様々で。風景を撮る人、鳥やネコなどの動物を撮る人、特定の人物だったり、日常のひとコマを撮ったり、写真って撮る側の性格もよく現れると思う。そういうところも好きだ。
真波君が自転車に乗るのと同じくらい、私は写真が好きで。真波君がロードレースで全てを出し切って届かなかったものに、私は届くだろうか。校内写真展示と言っても、箱根学園は人数がとても多い。写真を撮るのもみんな上手だし、何十点もの写真を展示して、生徒一人ひとりが気に入った作品に投票する。その中で金賞を手にするのは大変なことだ。
「まだ、悩んでる?」
「え?」
「しわ、寄ってる」
いつの間に私の教室までやって来たのか、休み時間の間に真波君が私の席の前に立っていた。彼は私が何に悩んでいるのか知らない。最初から私は真波君への恋心を自覚してしまったことでグルグル悩んでいたのだが、真波君は私が部活で上手くいっていないのではないかと思っているようだ。彼を避けていたのも、インターハイで思うような写真が撮れなかったのではと、考えているのだと思う。それに対して真波君は「一位じゃなくてごめんね」と言うのだが、そんなものはどうでもいい。あの時の真波君は本当に格好良かったし、相手の子だってとても速かった。あの日の真波君を責めることは誰にも出来ないし、それに私は、あの時撮った写真は、これまで撮った写真のどれよりも美しいと思っている。だけど、それを選べないでいるのは、
「……正直に言うとね、うん、悩んでる」
あの写真は、私の宝物にしたい。他の誰にも、見せたくない。そんな感情がうずまいて、どうしようと思う。それは独占欲というものに限りなく近くて、けれど、だったら私は何のために彼の写真を撮りたいと思ったのだろうと疑念を抱く。最初から、このためだったのに。
「また山に行く?」
「山に行ったって、解決にはならないよ」
出かける度、また君を好きになって、また独り占めしたくなる。そればかり。そしてまた悩んで、悪循環。自分がちっぽけな存在に思えて馬鹿らしい。
「ね、覚えてる?」
「……何を?」
急に真波君が私の顔を覗き込んでくるので、少しだけ身を引いて尋ねた。真波君は笑顔を浮かべたまま、あまり遠くない過去を思い出しながら話す。
「俺、前に言ったよね。さんが楽しそうって言ってくれたから、俺、前より山を登るのが楽しいんだって」
それは、インターハイ前。真波君は自分のことを理解してくれたから、と私に対して感謝の言葉を告げた。そのときの私はまだ自分の気持ちには気づいてはいなくて、ただ少し気になる存在だっただけのはずだった。その後に宮原さんと見に行ったインターハイの熱気に当てられて、勝利を手に出来なかった彼を探した。ひとり悔し涙を流す、初めて見る笑顔以外の真波君に、私は衝撃を受けたのだ。
「さんはさ、俺を楽しそうって言ったけど」
負けちゃった、と言った真波君の寂しげな笑顔は、私の心にずっと焼きついてはなれない。だけど、つい先日私を気晴らしにと二度目のサイクリングに連れて行ってくれた真波君はやはり楽しそうだった。負けても、悔しくても、彼は本当に坂が好きなんだなあって思った。だけど、どうして今更そんなこと言うんだろうって疑問に思って真波君を見る。彼は笑いながら、私の首から提がっているカメラの紐を掴んだ。
「写真を撮ろうとレンズを覗いているさんも、すごく楽しそうに笑ってるの、気づいてる?」
俺も、そんなさんを見ているのが好きなんだって、真波君が言う。そんなのずるい。不意打ちすぎて、私は顔が熱くなる。
「だから俺、さんがカメラを学校に持って来なくなったとき、どうしようって。俺が山に興味なくなるくらい、びっくりしたんだ」
真波君が、首紐を掴んだ手に力を込めて少しだけ引っ張ると、反射的に私は椅子から腰を浮かせる。近くなった距離に、それでも平然としている真波君に、私の心臓は暴れっぱなしだった。
誰か、誰か助けて。この状況をどうにかして。
そんな私の祈りが届いたのか、瞬間、教室のドアががらりと開いて、可愛らしい声が響く。
「山岳ー!! もう、今日という今日は逃がさないんだから!」
「うわ、委員長」
「全く、さんにまで迷惑かけて! さっさと教室戻るわよ!」
委員長、こと宮原さんは真波君と私に近づいてくると、ごめんなさいねと少しだけ頭を下げた。宮原さんの声で驚いて真波君は紐から手を離したから、今のを見られてはいなかっただろう。そう、思いたい。クラスメイトの数人はちらほらとこちらに視線を向けてはいたけれど、真波君が教室を出て行くと同時にそれぞれの日常に戻っていった。恐らく、全ては「あの真波だから」で片付いてしまうのだろう。何をやっても不思議ではない、あいつは。と、そんな奇異の視線なのだ。私が彼に好意を持っているなんて知らない同級生達は、私のことを多分「絡まれて可愛そう」くらいにしか思っていない。
宮原さんに引きずられながら、真波君はまたねと手を振った。昼休みが終わるまで時間があるし、真波君は終わっていない未提出の課題プリントでもやるのだろうか。宮原さんのあの様子を見るに、今まで彼はそれらをのらりくらりとかわしてきたらしい。インターハイまではと目を瞑ってきた宮原さんも、限界だったのだろう。
『写真を撮ろうとレンズを覗いているさんも、すごく楽しそうに笑ってるの、気づいてる?』
真波君の言葉が、脳内で再生される。薄々気づいてはいた。真波君と居ると、苦しい反面、とても世界が輝くの。それが恋だなんて私はもうとっくに知っていて、だからこそ伝えることはできないのだ。山が恋人である彼に、次のインターハイでリベンジを誓う彼には、決して。でもね、やっぱり、私は山を登る君が好きだから。なら、私も応えなくちゃいけないね。真波君が好きだと言ってくれた、私のままで。
「さん、期限、今日までなんだけど」
出す写真、決まった?
期日まで何の写真も提出していない私を心配するような先輩の言葉に、笑顔で答える。
「はい、決めました!」
一人でもやもやしてたって結論なんか出ないから、それならいっそこの想いを吐き出してしまおう。
私が真波君に感じている全てを、彼を想う気持ちを、みんなに伝えられたら。
それだけでいいって、思えたの。
全部、きみのおかげだね。