06




     箱根学園は総北高校に僅差で負けた。それはコンマ数秒の差であったとしても、負けは負けなのだ。王者に言い訳は許されない。一日は体を休めるようにとのお達しがあったらしいが、その次の日にはもう普通に部活をしている彼らには脱帽してしまう。流石にお邪魔する気は起きずに、私は遠目から自転車部の部室を見て、中から聞こえる怒声に練習風景を思い浮かべるだけに留めてそのまま帰宅した。
     真波君は一生懸命だ。きっと先輩からの叱咤激励もあって、もう部活にも打ち込んでいるだろう。来年に向けて、敗北をバネに、今度こそは勝利を掴むために。だけど、だからこそ、そんな真波君を邪魔したくなくて、そして見たくなくて、私は目を背けた。もう、自転車部には行けない。

    「さん、山岳と何かあった?」
    「え?」

     自転車部を避けて通った翌日、学校で会った宮原さんにそう尋ねられた。どうして? そう口にしてから辺りを見回すが、真波君はいない。ホッと胸を撫で下ろしている私に宮原さんは「こんな朝早くから山岳が来ているわけないでしょう」と言った。正論だが、酷い言われようである。

    「……昨日ね、帰ってきた山岳が言っていたの」

    『俺、さんとどんな顔して会えばいいのか、わかんないなあ。今日だってさん部活に来なかったし、避けられてるのかな。まあ、あれだけ勝つって啖呵切っておいて負けたんじゃ、愛想も尽かされるよね。あ、でもハンカチ返さなきゃいけないんだけど、委員長代わりに返しておいてくれる?』
    『イヤよ、自分で返しなさい』
    『ええ……うん、仕方ないのかなあ。っていうかまだ乾いてないけど』

    「……真波君に嫌気が差したとか、そんなんじゃないけど……っていうか愛想って」

     まるで浮気がバレた亭主のような発言に、つい噴出してしまう。けれど私が真波君を避けていたのは本当のことだったので、心から笑うなんてことは出来なかった。宮原さんに本当のことを話すべきか迷ったが、あの時真波君が泣いていたことを、私は何となく言いたくなかった。

    「ただ、きっと一番辛いのは真波君だから……どう声をかけていいか、わからないの」
    「さん、山岳の写真、もう出来たの?」
    「え? ううん、まだだけど……」
    「それ、出来たら山岳に見せてあげたら? きっと山岳も励みになると思う」

     誰かが見てくれてるんだって、一人じゃないって、わかるはず。
     宮原さんはそんな風に言った。そして私が「詩人だね」と茶化すと「貴方ほどじゃないわよ」なんて返された。確かにその通りだ。 

    「励みに、なるかな……なれば、いいなぁ」

     だけど私は、その写真をすぐに現像する気はなくて、カメラのフィルムにおさめたままだった。真波君にも言ったのだ。写真は、校内写真展で披露すると。
     ただ、今の私は、

    「私、今は真波君に、会いたくないの」

     そんな風に言ってしまって、彼の幼馴染の宮原さんはどう思うだろう。嫌われてしまうかもしれない。けれど、そんな私の考えをよそに宮原さんは優しく笑った。

    「さん。私ね、嬉しいの」
    「え?」
    「今まで、山岳のことを見ているのは私だけだと思っていたわ。だけど山岳は全然私の言うことなんて聞かないし、自分勝手で。でも、山岳はさんのことを楽しそうに話すのよ。一緒に山を登ってくれたんだって」
    「……そう、なんだ」
    「ずっと手のかかる弟のようだったけど、さんも山岳のことを考えていてくれるから。インターハイ、一緒に見れて良かった」

     宮原さんがそう言うと、ちょうどチャイムが鳴る。もうすぐホームルームが始まるわね、と宮原さんは自分の教室へと入っていった。山岳のこと、見捨てないであげてね。そう言い残して。

    「……見捨て、ないよ」

     ただ、このやり切れない想いをどうしていいのかわからないだけだ。真波君への想いを自覚した今、彼の顔をまともに見れる自信が無いのだ。
     私は、ここぞというときに行動できない自分に嫌気が差した。



    「……参ったなあ」

     たまたま今日は早く目が覚めて、よし山へ行ける! なんて気持ちにならなかったのには自分でも驚きだった。ただ学校に行く準備を整えて、いつもよりもずっと早くに家を出た。早いと言っても、普通に皆が登校する時間だ。校門付近で立っている生徒指導の先生は、俺を見て驚いていた。真波、エライぞ! なんて言われて、周りも俺も苦笑を浮かべる。普通に学校来ただけなんだけど。しかも始業十分前。
     山へ行かなかったのには、理由がある。もう少し持久力をつけるまで、自戒の意味も込めて練習メニュー以外での山は禁じた。それと、借りたハンカチをさんに返さなきゃと思ったんだ。合わせる顔がないなんて委員長には言ったけれど、俺はさんに会いたくないわけじゃない。あんな情けない姿を見られてしまったけど、それでも話したことで心が軽くなったし、気遣ってくれた彼女にはとても感謝している。だから、少しでも話が出来ればと思って早めに学校に行った。真っ直ぐにさんの教室へ行こうとしたら、思いのほかすぐに見つかった。階段の踊り場で、何やら委員長と二人で話をしていた。もしかして、俺のこと話されてる? 別に口止めはしてないから咎めることはないけど、でもなんかちょっと恥ずかしいな、なんて考えながら何故か声をかけるのを躊躇って、つい隠れてしまった。すると、話し声が聞こえてきた。

    「私、今は真波君に、会いたくないの」

     ちょっと、いや、だいぶショックだった。避けられてるとは思ったけど、そこまで露骨に嫌がられているなんて思わなかったから。
     俺はそれ以上聞きたくなくて、踵を返した。遠回りになるけど、今日は反対の階段を使おう。

    「あら? 山岳、今日は早いのね」
    「……うん」

     チャイムと共に教室に入ってきた委員長が、俺を見て目を丸くする。みんな、いつもより少し早く来ただけなのに俺を珍獣かなんかのように見てくるんだから。

    「少し、じゃないわよ。あなた、いつもいつも遅刻ばかりで――」
    「もう、その話はいいよ委員長」

     さんとどんな話をしたの、とか、聞きたいけど聞きたくないって思った。どうしよう、ハンカチ返しそびれちゃったなあ。委員長には自分で返せって言われたし、さんの他の友達なんて顔も名前も覚えちゃいないし、参ったなあ。俺、学校終わったら部活もあるのに。来年のインターハイで勝つって先輩たちに言っちゃったから、本気で頑張んないといけないのに。こんなんじゃ、ペダルも重くなっちゃいそうだ。

    「真波、お前はもう上がれ」
    「……えっ」
    「帰って少し休め」
    「え、やだなあ福富さん。俺、まだやれますよ?」

     折角いつもより早く来てもつまらない授業は三分の一も頭に入っていない。放課後、俺はすぐに部活へ直行した。さんに会わないようにとかじゃなくて、彼女の姿そのものを見ないように。休み時間に廊下からさんの楽しそうな笑い声が聞こえる度、俺は苛立ちを感じていた。だから、部活に打ち込んで、無心でペダルを回せば何も考えずに済むと思ったのに。先輩たちには、全部お見通しみたいだった。

    「今日は帰って、頭を冷やして来い。ただし、今日だけだ」

     福富さんの部長命令を受けて、俺は溜息混じりに帰路につく。ただ、今日だけで、頭を冷やして来いって言われても、さんには会えないのに。

    「……あ、そっか」

     考えるの、止めよう。さんが俺に会いたくないって言ってるだけで、俺は直接聞いてないし。何より俺が、さんに会いたいんだから。
     俺は携帯を取り出して、委員長に電話をかけた。

    「あ、委員長? さんの家、教えて――」


    「……え、なんで、真波君……」
    「委員長に教えてもらった」

     プライバシーの侵害だ、とさんは言った。家に押しかけて呼び鈴を鳴らせば、お母さんらしき人が出てきて、すぐに本人を呼び出してくれた。家に上がってと言われたけど、会いたくない人が家に上がるのはとても嫌なことだろうし、すぐに済むのでと断った。玄関に出てきたさんにお母さん美人だねと言ったら、そう? と素っ気無く返された。目も合わせてくれないし、そんなに俺が嫌いになったの?

    「これ、ハンカチ。ありがとう」
    「別に、いいって言ったのに……」

     そんなわけにはいかないよ。俺、そこまで礼儀知らずじゃないし。笑って言ったら、ちょっと不審がられた。あれ、おかしいなあ。

    「ね、さん」
    「?」
    「この前はありがとう」

     俺が言った言葉に、さんは目を丸くした。もう聞いたよ、なんて言うけど、さっきのはハンカチに対する礼であって、今度のは違う。

    「あの時、先輩たちにどう言えば良いかわからなかった。無様に負けた俺が、先輩達の走りを全部無駄にしたんだ。だけど、あの時さんが来てくれて、傍にいてくれて、なんだかとても落ち着いたんだ」
    「……!」

     さんは黙って俺の話を聞いて、困ったような、申し訳なさそうな顔をした。それが何でなのか俺にはわからなかったけれど。
     言葉の途中でなんだか俺も悲しくなってきて、段々俯きがちになる。

    「さんが、情けない俺を嫌いになったとしても、俺――」
    「ま、なみくん」

     それまでは黙って聞いていたさんが、俺の言葉を遮って名前を呼んだ。顔を上げた俺は、さんの顔に驚く。

    「真波君は、悪くないの。私が、私の、せいなの」

     必死に唇を引き結んで、涙を堪えているさんに、俺は何も言え無くなる。なんで、さんのせい? 俺が、何かしたんじゃなくて?

    「私の問題なのに、宮原さんや真波君を振り回して、傷つけてたんだね……」
    「……よく、わかんないけど。聞かない方が良い?」

     小さくさんが頷いたことを確認して、俺はそっかと言って笑って見せた。良かった。理由はよくわからないけど、俺、嫌われたわけじゃなかったんだ。
     でも、さんが悩んでいることは事実で、俺はそこを何とかしなきゃと思った。さんが俺にしてくれたように。

    「俺、さんの力になりたい。いつでも、頼っていいよ」
    「真波君……」

     だから、一人で抱え込んで、泣かないでよ。
     そう言った俺に、さんは小さく「避けてごめんね」と言った。今は俺、それだけでいいや。

    to be continued...





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