真波君とは幼馴染だと言う宮原さんに連れられて、初めてロードレースのインターハイを見学しに来た。私も宮原さんも、本当ならそこまで興味もなかったのだが、真波君がいるから、彼が頑張っているから、その応援に来たにすぎない。宮原さんは昨日も来たそうだ。おにぎりを渡そうと思ったけれど、あまりの剣幕に声すらかけられなかったと残念そうに話していた。やはりあの真波君が本気になるくらいなのだから、インターハイともなればそうそう甘くはないのだろう。
「でも、意外だったわ」
「え、なに?」
「さん、貴女、山岳とそんなに接点があるようには思えなかったから……」
「……えっと、」
牽制、されているようには見えない。ただ純粋に、宮原さんには不思議なんだろう。
「真波君が」
自分でもよく分かっていないのに、他人に理由を説明できるわけがなかった。
「あんまり楽しそうに、坂を上るから……汗がきらきらしてて、きれいだなって思ったの」
カメラを持つ手に力が入る。もうすぐ真波君が、ここを通るのだ。今日だけは絶対に、そのシャッターチャンスを逃したりはしない。
拙い言葉の羅列を重ねることしか出来ない私に、宮原さんは静かに言った。
「詩人ね……さん」
「自分でもそう思う」
でも、それ以外に言葉が見つからなかったのだ。真波君に対するこのワケのわからない気持ちも、自分が今ここにいるその理由さえも。
「でも、きれいだと、思ったのよ」
「……」
宮原さんはそれ以上何も言わず、まだ誰も走って来ないコースを見た。最初に現れる人物を思い描きながら、私は真波君の見せた笑顔を思い出していた。
絶対勝つよと彼は簡単に言ってのけたけれど、果たしてこのレースは本当に簡単に勝てるようなものなのだろうか。王者という異名を背負いながら、しかし誰もがその王者を超えようと努力を重ねている。強いから勝てる、というわけではないのだ。
勝った者が、強いのだ。
あの日、一人自転車で山を駆け上る真波君を見て一瞬で落ちた。もっと、彼を撮りたい。苦しいだけのはずの坂をあんなにも楽しそうに進む彼に、見惚れてしまったのだ。それから自転車部に行って、部長さんからの許可を得て押しかけるようになった。真波君は遅刻魔で練習はあまり積極的とは言えなかったけれど、時間のある時はなるべく顔を出すようにした。いつシャッターチャンスがやってくるかもわからないので、通い続けた。結局、練習の風景ではそんなに良い姿は撮れなかったけれど。だけどひとつ、確かに変わったことがある。部活や、自転車に乗っている以外でも、私は彼のことを目で追うようになっていたのだ。自分でも驚いてしまうくらい、真波君の声に、姿に、反応してしまう。こうして彼のことを待っている間にも、胸の高鳴りがおさまらない。これはもう自覚せざるを得ない。被写体なんかじゃなくて、私は真波君のことが好きなんだと。
「……見えたっ!!」
どこからともなく歓声が、上がった。遠くで、小さな影が二つ見える。青と、黄。青いジャージを着ているのは真波君だとすぐにわかったけれど、隣の子は誰だろう。真波君にぴったりくっついて、二人とも真剣にペダルを回していた。後ろの観客に混じって、「うちの息子だわ」そんな声が聞こえた。
宮原さんが息を呑む隣で、私は瞬きすらしないでコースを見つめたまま、首に提げたカメラを手に取った。震える手で、シャッターを切る。カシャリ、カシャリ。レンズ越しに、光る汗。目の前を通った真波君は、観客など気にも留めずに一瞬の内に登っていってしまう。その距離が、なんだかとても遠く感じた。
「行こう、宮原さん」
「行くって、どこへ……?」
「ゴールに」
「え!? ちょっとさん!?」
五百メートル先のゴールへ向かって、私は人垣から外れて走った。インドアっぽい彼女は、声を上げただけで追ってくることはなかった。
途中、アナウンスが聞こえる。あと二百メートル、百メートル、五十メートル。どんどんゴールへと近づいていく音声情報に、私はカメラがぶつかって壊れないように手に抱えたままそれでも全力で走った。こんなにきつい坂なのに、あの二人は自転車で、物凄いスピードで登っていた。やっぱり真波君はすごいなあって、痛む足から逃避するみたいに考えていた。案の定私がゴールにつく前には大歓声が聞こえてきて、次いでアナウンスが流れる。優勝は総北、という別の高校の名前が挙がった。王者箱学は、二位に落ち着いてしまった。それだってとても凄いことのはずなのに、だけど何だか違うような気がした。
頂上に着いた頃、係りの人が表彰台を設営しているところだった。選手達の姿はもうゴール付近には無く、各々テントの中で待機をしているようだった。そんなの考えれば当たり前なんだけど、それでも私は何か行動を起こさなくては気がすまなかったのだ。
「……勢いで来たけど、テントに入るわけにはいかないし」
そもそも、箱学は二位なのだ。おめでとうなんて言葉は間違ってもかけられないし、慰めの言葉などかけても惨めになるだけだ。今はきっと、誰にも会いたくはないだろう。せっかくだから表彰式くらいは見て行こうかと思い、まだ時間がありそうなのでその辺をぶらつくことにした。
それは本当に偶然、だった。設営場から外れて歩いた先に、まさか彼が居るだなんて夢にも思わなかったのだから。
「! まな、み、くん」
「……さん」
つい声をかけてしまって、私は次にかけるべき言葉が見つからずに息を呑んだ。いつも朗らかに笑っている彼が、頬を涙で濡らしていたから。
「ご、ごめんね……声、かけるつもりじゃなかった、んだけど」
「……いいよ、こっちこそごめん。こんな情けない姿見せて……せっかく応援、来てくれたのにね」
負けちゃったよ。ごめんと謝る真波君は、とても小さく見える。景色を見ていたら、落ち着くかと思ったんだけどと彼は言った。
「大丈夫よ。一番悔しいのは真波君だって、わかってるから」
「……」
「表彰式までまだ時間があるみたいだから、ゆっくりして、落ち着いてね」
また、学校でね。
そう言って立ち去ろうとしたら、真波君が私を呼び止めた。
「待って……ねえ、さん。少しだけ、ここにいてくれないかな」
「え?」
こういう場合は一人にした方が良いと思ったのだけれど、真波君は目を赤く腫らして笑った。
「さんの顔見たら、少しだけ落ち着いた」
全然、落ち着いたなんて嘘だと思った。真波君って案外、嘘をつくのが下手だ。いつも自分の心に正直に生きている人だからだろうか。
「ちょっと、待ってて」
一度設営場に戻って、ハンカチを濡らして来た。その顔で表彰台に上がるのはどうかと思うわ、なんて伝えれば、真波君は確かにねと言った後、お礼を口にしてそれを受け取った。
「綺麗だったよ」
「え?」
「真波君も、隣で走ってた子も」
「ああ……坂道君ね」
真波君が負けた子は、坂道君と言うらしい。山岳に、坂道。その名前は、何だか運命を感じてしまいそうだ。
「自転車に乗っている人を、あんなに綺麗だと思ったことは無いわ」
「いい写真、撮れた?」
「それは秘密。校内の写真展を楽しみにしていて」
写真部の活動として、年に四回、春夏秋冬でそれぞれのテーマを設けられて部員達が写真を撮る。それは校内に展示されて、生徒達に投票権が与えられる。目指すところは写真甲子園だが、その校内の写真展示会に関しても、大賞は名誉あるものなのだ。箱根学園が力を入れているのは、何も自転車部だけではない。
「私、真波君に会えて良かったなあって思うよ。真波君を撮れて、私、世界がもっと輝いて見えるの」
「俺も、さんに撮ってもらえてよかったよ」
彼が、本当にそんなことを思っているのかは定かではない。だけど、嘘は無いのだろう。ありがとうと真波君が言うから、私はそれを素直に受け取ることにした。
「……さて、と。そろそろ戻らないとね。ハンカチ、ありがとう。洗って返すね」
「いいよ、別に。そのままでも……」
「ううん、ちゃんと返すから。……それじゃあ、表彰式で」
まだ少し目元が腫れていて、さっきより少しはマシになっている程度だった。
きっとこれから、真波君にとっては大変な一年になるのだろう。来年のインターハイに向けて、死に物狂いに練習するのかもしれない。もしもあの自由な真波君が居なくなってしまったら、私は嫌だ。自由に山を駆ける彼が好きで、こんなにも惹かれたのに。レースがこんなに過酷だなんて、思わなかったよ。
表彰式、優勝チームに拍手を送って、個人表彰で台に上がった真波君は、気丈にも笑顔で振舞っていた。それを見て、私は自然と涙がこぼれた。
ハンカチ、もう一枚持ってくれば良かったなあ。