現像した写真を見返してみる。最初に比べて、少しずつカメラの扱いにも慣れてきたように思う。相変わらず自転車部に行ってもあの時のような真波君の姿を撮ることは出来ないけれど、それぞれが楽しそうに道を走るので、自転車に少しだけ興味が沸いてきた。
写真部の集まりは週一で、それぞれが撮った写真を見せ合い評価するというもの。緊急ミーティングがあればその都度召集がかかるが、それ以外は時間のあるときに好きなだけ、好きなものを好きな場所で撮ればいいので、私はひたすら自転車部を追った。元々私が好きな空を、さらに素敵に彩ってくれる青春の色が、そこにはあったから。
最近は真波君以外の部員の写真が増えてきた。インターハイ出場が決まったというもの、真波君は相変わらず急にどこかへ消えるし、遅刻してくるし。
写真を撮っていて思う。さすが自転車の強豪というべきか、皆走るのが早い。けれど、真波君のように坂をあれだけ楽しそうに登る人は、見当たらなかった。
「インターハイは応援に行くね」
「本当? ありがとう。声をかけられても反応できないかもしれないけど」
それだけ走りに集中したいということだろうか。廊下で久しぶりに見かけた真波君に声をかけると、屈託ない笑顔でそう言われた。確かにスピードを出している時に声をかけられても返事をする余裕などないだろうけれど、別に私は認識して欲しくて行くのではないので構わない。応援という体で、やはり彼の楽しそうに走る姿を撮りたいだけなのだから。
時に真波くんには、世話焼きな幼馴染の女の子がいるそうだ。以前私が別の友達とのツーショット写真を撮ったことがある女の子で、真波くんからその話を少しだけ聞いたことがあったが、彼女が真波くんと家がお隣さんで小学校からの幼馴染であるということを私が知ったのは、お喋りな東堂さんが聞いてもいないのに真波くんの情報を本人のいないところでつらつらと流れるように口にしていたからだ。その挙句、そんな真波くんよりも自分の方が写真を撮るに相応しいクライマーだと語りだしたところで静かに退散させていただいた。確かに東堂さんは格好いいし才能もあるのかも知れないけれど、女の子のファンを大事にしていてファンサービスも旺盛で、特定の彼女もいないことでも有名なんだけど、でも私が本当に撮りたいのは真波くんだけで。真波くんに近しい女の子が居るとか、そんなのもどうでもいいことで。むしろ、その幼馴染の子に会って、真波くんのことをすこし教えて欲しいと思って教室を覗きに行ったこともある。真波くんは当然のように教室にはいなくて、幼馴染とはどの子だろうと探すまでもなく、彼女は「山岳!? ……またいないっ!!」とひとり頭を抱えていたので、すぐにわかった。
「宮原さん、だっけ。彼女と一緒に行くからね」
「委員長と? そんなに仲良かったんだ?」
「ちょっとね。真波くんの話も少しだけ聞かせてもらったんだよ」
「えー、なんか照れるなぁ」
宮原さんは眼鏡でお下げの女の子。古典的な優等生、という言葉がよく似合う。それでも話していて嫌味な感じはなくって、純粋に真波くんのことが心配なんだろうなって気持が伝わってきた。私が真波くんの写真を撮りたいのだと伝えると彼女は甚く喜んで、私をインターハイに誘ってくれたのだ。
照れると言って笑いながら頭を掻いた真波くんは、それじゃあもっと頑張らないとと口では言ったけれど心にもないことなんだろうなと思った。だって、彼はきっと自分のためにしか走らない。誰かの為にとか、注目されて力を発揮するタイプでは絶対にないのだ。でなければ、山を登っていてあんな素敵な笑顔はつくれない。
「さんが楽しそうって言ってくれたから、俺、前より山を登るのが楽しいんだ」
「……わたし?」
「うん。荒北さんなんか俺を不思議チャンって呼ぶし、他の人にも変な奴くらにしか思われてない俺のことを、さんは解ってくれたから。それが嬉しくて」
ありがとうって、真波くんが笑う。どうしてお礼を言われたのか私はイマイチわからなくて、
「あ、もうすぐ次の授業始まっちゃうね。俺今日も遅刻してきたから、そろそろ行かないと委員長に怒られちゃう」
またねと手を振って去っていく真波くんの背中を見つめたまま、ただ考えていた。
荒北さんが不思議ちゃんって呼ぶのも理解できる。真波くんはいつも飄々としていて掴みどころがなくって、誰に何を言われても自分を曲げたりは絶対にしないんだ。山を登る時みたいに、真っ直ぐだから。そんな真波くんが私を理解者と言って、ありがとうだなんて。そんなこと言われるなんて思ってもみなかったから面食らって驚いた。理解者だったら、貴方が委員長と呼ぶ宮原さんだって、立派に貴方を理解していると思うのに。そういえばロードに出会わせてくれた委員長には感謝しているとも、真波くんは言っていた。それ以上の話は聞けなかったけれど、きっと真波くんは真波くんなりに周りの人に感謝しているんだろうとは思うんだけど、きっと彼の感情は伝わりにくいんだ。それなのにそんな風に言うのはずるいと思うの。
「……」
ただ、私は真波くんの写真を撮りたいと思っただけなのに。いつの間にか、もっと別の意味で惹かれてしまうんじゃないかって怖くなる。
お母さんからおつかいを頼まれた帰り道。夕焼け空を仰いで、荷物になるためカメラを持って来なかったことを残念に思っていたとき、カラカラと車輪が回る音が聞こえた。
「あれ、さんだ」
「真波くん?」
まだ明るい。普段の自転車部はまだ練習をしている時間だったが、真波くんはその疑問に「インターハイが近いから、支障でないようにゆっくり休めって福富さんが」と簡潔に答えた。
「さんは……あれ、今日はカメラ持ってないんだ」
「うん。今日は買い物があったから、持ってこなかったの」
「そうなんだあ」
おかげで朝から暇で暇で仕方がない。真波くんはいいなあ、いつでも好きな時間に自転車に乗っていられるんだから。本当は良くないことだけど、先生方も同級生たちも先輩も、きっと多分諦めてる。気ままな真波くんには何を言っても無駄なんだと。私も本当は、誰の目も気にせずに一日中写真を撮ったりしてみたいなんて。
「……」
真波くんのことを羨みながらゆっくり歩いていたら、真波くんの気配がぐっと近づいた。驚いて振り返ると、彼は自転車から降りて、私の隣を歩いている。どうして? 口に出す前に、真波くんは「一緒に帰ろっか」と笑った。珍しいというか、何だか自転車に乗っていない真波くんって――
「真波くん、自転車に乗っていないと普通の人みたいだね」
「アレ。いつもの俺って普通じゃないんだ?」
「……うん」
私が知っている真波くんは、いつも自転車でいろんな場所へ行って、自由で、楽しそうで。どこか遠くの人だったから、こんなにも近くで一緒に歩いていると、何だか別人のように思えてしまう。
真波くんのロードバイクを横目でちらりちらり眺めていたら、不意に彼と目が合って慌てた。けれど真波くんの視線は私の買い物袋へと注がれたまま呟いた。
「重そうだね、袋」
「そう? これくらい平気だよ」
「見かけによらずさんたくましいね。荷物、持ってあげられればいいんだけど」
ロードバイクにはカゴも荷台もない。それが当たり前だし良いところでもあるのだけど、こういう時ばかりは不便だとでも言うように真波くんは口にする。
「真波くんってそういうことしない人だと思ってたんだけど」
「うん、でも東堂さんがファンの女の子には優しくしろって言うから」
「私は真波くんのファンなの?」
「あれ、ちがった?」
「……ううん、違わない」
ファン。何だかとてもミーハーな響きで少しだけ落ち着かないのだけど、そもそも東堂さんを応援する女の子たちと真波くんの写真を撮ろうとする私の姿は、第三者から見ればそう大差ないのである。そういった意味で考えれば、私は間違いなくロードレースというくくりではなく、真波くん自身のファンなのだろう。
「……」
「……」
会話が少し途切れる。押されてつまらなさそうに回るタイヤの音だけが聞こえる遊歩道で、男の子と並んで歩くなんてと思う半面、真波くんのまとう優しげな雰囲気は何だかとても安心する。
何を考えているかわからないのに、真っ直ぐな目は吸い込まれそうになる。もっとその瞳に映りたいなんて考えたところで無意味でしかないのに。きっと真波くんのこの行動は、全て気まぐれなのだ。
でも、だけど、私はもっと真波くんに近づきたくて、仕方がない。
「さんがく、」
「え、なに?」
「山岳って、そのままだけど、いい名前だよね」
「……うーん」
真波くんを下の名前で呼ぶのは宮原さんだけ。その響きが何だか新鮮で少しだけ私も口にしてみたかったのだけど、思ったよりも照れくさい。
真波くんは黙ったまま、少し考え込んだあと、ゆっくりと私を見た。
「」
「!」
「……って名前も、きれいな響きで俺は好きだよ」
なんて、私の名前なんかよりもきれいな顔で笑うのだ。
ファン――特定の対象に対する熱心な支持者や愛好者。ひいき。
帰宅して、久しぶりに辞書を開いてみたら、そんなことが書かれていて眉をひそめる。私が真波くんのファンだとして。真波くんが「東堂さんが言うから」って言うように、東堂さんと女の子の距離感に私と真波くんを当てはめてしまうなら、私と真波くんの距離は近いようでずっと遠い。
「私、やっぱりファンにはなりたくないわ」