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    「ちゃん」
    「はい?」

     廊下で声をかけられて振り向くと、そこには自転車競技部の先輩がいた。とはいっても私はただ写真部としてお邪魔しているだけの存在なので、実際には私の先輩ではなく、私の被写体である真波君の先輩なのだけれど。

    「あ、えっと……」
    「俺、新開だよ」
    「あ、そうです。新開さん」

     二、三年の間で、東堂さんと並んでカッコイイと人気がある先輩なのは知っている。確かに優しいし格好いいと思うけれど、大した接点もないから名前が出てこなかった。新開さんは最近どうだい? なんて世間話をしてくる。ただ廊下で偶然会っただけなのに、その優しい笑顔は反則だと思う。だから、みんな好きなんだろうな。人気なのもわかる気がした。

    「写真撮らせて下さいって言っていた割にはあまり顔を出さないんで、どうしてるかなと思ってね」
    「……だって真波君、部活にくるの遅いし、いつも違う山登ってるから全然会えないし、私もバイトあるし……」

     ああそうかと新開さんが同情の視線を向ける。どうにもタイミングが合わないのだ。

    「そうか。なら、耳寄りの情報があるよ」
    「え?」

     新開さんの話によると、三日後にインターハイ出場メンバーを賭けた組別トーナメントが行われるらしい。流石の真波君もそのレースに遅れてくるわけにはいかない。更に言うなら、インターハイ出場を賭けたレースで、真波君の本気の走りが見られるんじゃないかと、新開さんはそう言うのだ。

    「わたしがお邪魔しても、良いのでしょうか」
    「見学者がいるのは、悪いことじゃないと思うけどな。一応寿一には言っておくから、遠慮なくおいで」
    「あ、ありがとうございます」

     三日後。ようやく真波君の走りが見られるのかと思うとどきどきする。思えば遠くからレンズ越しに一度見たきりで、ちゃんとしたロードレースを見るのは初めてだ。



    「あれ、さん。久しぶり?」

     ジャージに着替えた真波君が、愛用の自転車を押しながら私に近づいてそう尋ねた。久しぶり、といえばそうかもしれない。先日自転車部で会ってから、真波君を校内で見かけたのは三度あるかないかだ。

    「うん、そうかも……真波君って、本当に学校にいないよね」
    「あはは。坂が俺を呼んでるから、つい」
    「よくわからないけど、今日のレース、頑張って。インターハイ選抜なんでしょ?」
    「そうだよ。俺、このレースに勝って、インターハイで山を登るんだ。絶対気持ちいいだろうなあ」

     真波君が自信たっぷりに言い放って、じろり、他の部員に少し睨まれた気がした。真波君は一年で、箱根学園の自転車部にはたくさんの部員がいて、レースに出られない二年も三年もいるのに。

    「意外と自信家なのね」
    「そうでもないよ。俺は俺の目標に向かって走っているだけ」

     先輩たちが、自分以上に練習しているのも知っている。三年生に至っては、これが最後のチャンスなのだ。誰しも出場したいと思うのが当然だが、それでも自分は目標へ進むしかないのだと真波君ははっきりと口にする。その上で、彼は私に笑顔で尋ねるのだ。

    「さんは?」
    「……」

     真波君は、わかっていない。いや、本当はわかっているのかもしれない。いつも飄々としていて、まるで私のことをからかっているんじゃないかとさえ思うときがある。私が何も目標を持っていないとでも、思っているのだろうか? そんなこと、あるはずがないのに。

    「……わたしだって、」

     だからこそ、私には貴方という被写体が必要なのだ。初めて山を登っている真波君を見た瞬間に、そう思った。この人しかいないって。
     福富さんからの号令がかかって、持ち場についた真波君。それまで笑顔を絶やさなかった彼がスタート地点に立った瞬間、先ほどとは打って変わって真剣な表情を見せた。息を、呑む。じわじわと滲んでくる手汗が、シャッターにかけた指を滑らせて上手くカメラを支えられない。
     スタートを知らせる合図が響いて、クライマーと呼ばれるらしい、真波君と同じポジションの人たちが一斉に頂上を目指し坂を登る。ロードレースのルールなんてよくわからない。それでも、一瞬たりとも目をそらすことが出来なかった。何人ものレーサーが勢い良くペダルを漕いで、その風圧で吹き飛ばされそうになるという錯覚が起こる。
     シャッターチャンスはいくつもあったのに、結局私は、シャッターを切ることができなかった。それほどまでに、圧倒されてしまったのだ。真剣に山を駆け上る真波山岳という少年の姿に、怖いほど。レンズ越しに見えたその姿に、指が震えてシャッターが押せなかった。ただ、目は離さなかった。反らせなかった。山頂に近づくにつれて彼が、とても楽しそうにペダルを回すから。初めて彼を見たときと、同じように。

    「ね、言ったとおりだったでしょ?」
    「真波君」

     汗だくになって戻ってきた彼を出迎える。先生の車で山頂へ先回りしていた私の元に、真波君は躊躇いなくやってきて胸を張ってそんなことを言った。確かに宣言どおり彼は他の二年や三年を差し置いて勝利してしまった。無論もうひとつのクライマーポジションは東堂さんらしいのだけれど、それにしても一年生でインターハイ出場は凄いと思う。やはり、真波君はレーサーの素質があるのだろう。

    「ちゃんと撮れた?」
    「……ううん、ごめんね」

     結局レース中シャッターは押せなくて、真波君の写真を残すことは出来なかったけれど、

    「でも、インターハイ出場決定、おめでとう」
    「……うん、ありがとう!」

     目標への第一歩を踏み出した君のその顔を、この瞳の奥に焼き付けておく。

    to be continued...





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