始まりは、まだ涼しさの残る初夏の季節だった。空が青くて、薄っすらと飛行機雲が線を引いただけの晴天。高校入学と同時に母親にねだり倒して購入してもらった一眼レフカメラ(決して安くない金額は、これからバイトをして返していくのが条件だ)を引っ提げて、近くの公園に向う。住み馴染んだ住宅街や景色を撮りながら、レンズを持ち上げてゆっくりと空を見上げる。鳥影が、視界の端に映る。
あ、今の翅はキレイだった。
どうして、そう思ったのだろう。何の変哲も無いセキレイだったと思うのに、カメラを構えたままその影を追いかけたのもよくわからない。ただ、今まで図鑑や写真集でしか目にしたことの無い生き物や景色を、自分自身で手に入れられるという事実に酔っていたのだろうと思う。素敵な出会いがあると、心のどこかで期待していた。
「……あ、」
シャッターを、自然と押していた。鳥の影を追いかけてどうやって歩いていたのかは覚えていないけれど、レンズの中に飛び込んできたのは、追いかけていたはずのセキレイではない。山を自転車で駆け上がる人の姿だった。自分と同い年くらいの、男の子。彼は汗を流しながら、必死で、だけれどとても楽しそうにペダルを漕いでいたのだ。
見覚えのある制服、箱根学園。自分の通う高校の生徒だった。様子からして、自転車部なのだろう。正直自転車競技には興味がないからどんなことをしているのかも検討がつかないが、一瞬で惹きつけられた。名前も知らない彼の、笑顔に。
「……よし、決めた」
今日の星座占い順位は、二位。思い立ったが吉日。
「なんだァ?」
「写真部一年の、です! 自転車部、見学させてください!」
変なヤツがいる。荒北は目の前の少女を見下ろして、歯を剥き出しにして威嚇したが、彼女は平然と動じることなく楽しそうに笑っていた。お願いします、もう一度頭を下げると、背後から東堂に声をかけられる。
「いいんじゃないか? 俺の美貌を撮りに来たのだろう。参ったな、またファンが増えてしまう」
「……いえ、あの、」
自分に酔いしれる東堂に、は言いづらそうに「違うんです」と口を挟む。自分が撮りたいのは、違う人物だと。
「では、誰のことを言っている? 主将の福富か? 俺に次いでイケメンの新開か? ……まさかこの荒北か!?」
「まさかって何だヨ!?」
「いいえ……ここには、いないみたいです」
練習しているメンバーを含めぐるりと見回してみたが、そこには彼の姿はなかった。もしかして、趣味で自転車に乗っているだけで自転車部ではないのだろうか? だとすれば、今日ここに来たのは全くの無意味で、また一から彼を探さなくてはいけない。同学年ならと思い朝のうちに全クラスを覗いてみたが、それらしい姿は見当たらなかったので、先輩だと思っていたのだけれど。
「また、出直します……」
がっくりと肩を落として帰ろうとするの前に、
「すみません、遅れました!」
彼が、現れた。
「遅いぞ真波! 今月に入ってから何度目の重役出勤だ」
「あはは。いいじゃないですか、練習には出てるんだから」
「お前……」
「あ、あのっ!」
「うん?」
東堂と真波のやり取りに、が口を挟む。まさかと全員の視線が少女に集まる中、臆することなくは声を上げた。
「わたしの被写体に、なっていただけませんか!?」
「……うん?」
「な、なんだとおおおおおう!?」
「るっせー、東堂」
同じポジションで先輩である東堂は、それはショックであっただろうが、の瞳には真波しか映っていない。大切なカメラを両手で抱えて、真波の顔を真剣に見つめる。
「わたしに、写真を撮らせてください」
「どうして、俺?」
「昨日、山を登っているの、見たんです。真波、さん、笑ってた」
ああ、と真波は納得して頷く。確かに昨日は日曜日で、天気も良かったから一人で山を登っていたのだと。
「よくわからないけど、被写体って、ポーズとかとるかんじ?」
「あ、いえ。自然体で結構です。私が撮りたいのは、山を登っている貴方だから……」
なんだ、それなら全然いいよ。真波はの願いを快諾した。それから、ふと沸いた疑問を投げかける。
「でも、さっきから何で敬語? それに真波さんって」
「え、だって、」
「さん、一年だよね?」
同じ年なのに敬語だとおかしいと指摘されたは、けれどどのクラスにも真波の姿はなかったと反論する。
「ああ、俺、学校来たの二限目だから」
「ええ……!?」
「相変わらず遅刻魔でサボり魔だな、真波は」
「でも今日は早い方ですよ、新開さん」
そりゃ朝には見つからないはずだとは深く息を吐いた。てっきり、先輩だとばかり思っていたのだ。
「だけど、わたしは真波君を知らないのに、真波君はどうしてわたしを知っているの?」
「え? うーん」
はただ不思議だった。目の前の真波という少年が、それほど他人に興味があるようにも思えなかったからだ。風のように自由に、山を駆ける姿はとても素敵だった。
真波は少しだけ考えて、すぐに笑顔で答える。
「いつもカメラ持って歩いてるのって、さんくらいだし。俺のクラスの子にもね、写真撮ってもらったって子、いるよ」
眼鏡の、委員長。前に見せてもらったんだけど、よく撮れてるよね!
真波の回答に、は少しだけ恥ずかしくなった。思いのほか、目立っていたらしい。確かにカメラを買ってもらえたのが嬉しくて、いつシャッターチャンスがやってくるのかもわからないので、授業中以外は絶対に首にかけて行動していたのだ。隙あらば人も物も景色も、全てが被写体だった。
「俺、あんまり写真とか興味ないけど、それでいいなら」
「あ、大丈夫です。わたしもロードレースとか、全然わからないので……!」
一瞬場の空気が静まり返る。あれ、何かまずいことでも言っただろうか。自転車部の中でハッキリ「自転車に興味ない」と言ってしまったことに気がついてはっとした瞬間、噴出したのは今まで様子を見ていた福富だった。
「正直だな」
「あ、えっと、すみません」
「もし良ければ、他の部員も撮ってやってくれ」
「ああ、それはいいな。部員たちのモチベーションも上がるし、校内の宣伝にもなるしな」
こうしては、騒がないこと、邪魔にならないようにすることを条件に自転車部の立ち入りを許可されたのであった。