09




     自覚を持たずしてその能力を行使できていた彼女を羨ましいと思う反面、その力を奪われたことを自覚できずに「どうして」と呟く様は、にとってとても哀れに思えた。
     ネオンは愛用のペンをくるくると指で回しながら、小さな溜息を吐いた。本日はまだ数えられる程度ではあるが、が彼女の傍に侍ってから通算すると、一体何度目になるだろう。

    「お茶を、お持ちしました。ネオン様」
    「あ……うん。そこ、置いといて」

     小さく言ったまま、ネオンはのことを一瞥もせず、インク以外のものが出なくなったペンをただ眺めていた。失礼します。そう言ってが部屋を後にしようとドアノブに手をかけた瞬間、そこで初めてネオンはハッと顔を上げ、「ねえ、待って」のことを呼び止めた。

    「はい?」
    「……名前と血液型と生年月日、これに書いて」

     ネオンは一枚、薄い紙をの目の前に差し出した。それは、クラピカに聞いていた彼女の能力の前提条件である。しかし、幻影旅団の頭に奪われてしまったその能力は、今の彼女には使えない。書いたところで無意味であるのだが、主に乞われれば応えないわけにもいかない。

    「畏まりました」

     そう言って、質問の内容を全て記入した。それから、いくつかのやり取りをして、彼女はペンをとる。とったが、何の変化も現れない。ネオンは特別がっかりした様子もなく、「やっぱりね」と事実を受け入れていた。それから天井を仰いで、ふーっと息を吐く。これを溜息と数えるならば、本日は十三回目である。

    「あーあ、なんで出ないんだろー」
    「……気をもんでいても、仕方ありませんわ。まずは健康であり続けることが一番ですよ」

     ヨークシンでの一件以来、父娘共々ひどく疲れ切った顔をしていたが、娘のほうはが侍女としてやってきたことで大分回復しつつあった。しかし、だからこそはネオンに元気でいてほしいと思っていた。また体力が低下してしまわないよう、主の身体を思い懸命に尽くしてもいた。

    「そうだ。外に、出てみませんか?」
    「え……?」
    「体調は良くなっていることですし、新鮮な空気を吸えば、きっと心も軽くなりますよ」

     その提案に、ネオンは頷かなかった。行きたい。そういう気持ちは確かにあって、しかし、自分の身分では決してそうはいかないことを彼女は痛いほど理解していた。自分の身勝手で周りを巻き込んで、事態を悪化させてしまった彼女にとって、それは一種のトラウマになっていたのだ。
     俯いたネオンに、はにこやかに言った。任せてください、と。



    「ダメだ」
    「どうして? ネオン様の身体を思えば、悪いことではないはずよ」
    「何故って……危険だからに決まっているだろう」

     クラピカの部屋を訪れ、直球に「ネオン様と外出したい」と言ったを、クラピカは一蹴した。何故、と負けじと食い下がるの意見も正しいし、許可できないクラピカの言い分も最もである。
     まだ事件の全てが片付いたわけではない。蜘蛛以外にも、ノストラードファミリーにはただでさえ敵が多い。それなのに、娘を外に連れ出すなど、ボスが許すはずがないのだと。それ以上にクラピカには、を事件に巻き込みたくないという思いが強かった。しかし、

    「危険だと思うなら、貴方が一緒にくればいいじゃないの!」
    「……は?」
    「ほら、それで万事解決だわ」

     あっけらかんと言い放つに、クラピカは呆れて物も言えなかった。一緒に来れば、とは言われても、クラピカにも仕事は山のようにあるのだ。それが出来れば苦労はしないよ、と口を開いたクラピカであったが、話を聞いていたセンリツが後ろで

    「あら、行って来ればいいのに。ボスのことは私が見ているし、貴方が一緒ならボスも安心でしょう?」

     そう言った。

    「さすがね、センリツ! クラピカより話がわかるわ」
    「……」

     女性が結託するのは、とても怖い。クラピカは改めてそう思った。



     外出の許可は案外すんなりと下りて、久方ぶりの外の空気にネオン嬢は目を瞬いた。それから大きく息を吸って、とクラピカに向き直って笑顔を向けた。ありがとう、と。

    「ねぇねぇどこ行く? ショッピング? 映画? ねぇねぇっ」
    「そうですね。流石に、人込みは避けた方がいいのかも。……ねぇクラピカ?」

     話を振られたクラピカは目を丸くした。のことだから、ネオンが望むまま、どこへでも行ってしまいそうな気がしていたのだが、彼女なりに考えていたようだ。
     視線でクラピカの言いたいことがわかったのか、は腕を組み、したり顔で笑った。「これでも一応大人ですからね」なんて。

    「……そうだったな。しかし、私もこの辺の地理にはそう詳しくはないからな。人の少ない場所で、かつ女性が喜びそうな場所は思いつかない」
    「ま、そうでしょうね」

     女性をエスコートできるクラピカなんて想像できない。きっぱりとそう言い切られて少々憤慨しつつも、確かにその通りなので何も言わないでおく。
     そんなクラピカの視線を気にも留めず、ネオンと楽しげに歩くは、彼女自身も他人と触れ合うこの時間を、楽しんでいるようであった。

    「散策でも、しましょうか」
    「お散歩?」
    「ええ。実はこっそり、お弁当も持ってきているので。ピクニックなんて楽しげでわくわくしませんか?」

     外出といえば買い物や美術展がほとんどだったネオンにとって、のんびり歩くことも、自然の中でのお弁当も初めてのことである。バスケット差し出したの腕に、目を輝かせて飛びついた。

    「楽しそう! ねえ、いっぱいお喋りしようねっ」
    「はい、喜んで」

     そんな二人の様子を、やや後ろから微笑ましく見守っている自分に、クラピカは気づいていない。
     心の隅には仕事のこと、事実上の主であるライト氏のことなど気がかりはある。しかし、今この時だけは、全てを忘れることが出来た。

    「じゃあ、は乗馬が得意なんだ」
    「得意というほどでも……でも、馬は好きです」

     レジャーシートの上で弁当を広げた三人。のこさえてきた弁当を囲んで、彼女の故郷でのことを聞いていたネオンは「じゃあ、今度は馬に乗せてね」と笑った。彼女のこんな笑顔も、久しぶりに見た気がする。

    「クラピカは? の馬に乗ったことあるの?」
    「……え? ええ、昔、何度か」

     突然話を振られて驚いた後、それだけ答えたクラピカに、ネオンはいいなあ、と言った。
     昔一緒に暮らしていた三週間の間に、数回だけ、乗せてもらって隣町まで買出しに行ったりとしていた記憶がまだある。

    「また……乗ってみたい気もするな」
    「じゃあ、今度はみんなでいこ! 乗馬!」

     つい、口に出してしまった言葉尻をとらえ、ネオンが嬉しそうに提案した。
     ハッとして口元を押さえるクラピカに対し、はクスクスと声を殺して笑う。

    「いや、今のは言葉のあやで……仕事もありますから」
    「えー」

     顔を反らしたクラピカの顔を覗き込み、ネオンは悪戯を思いついたような顔で笑った。

    「でもクラピカだって、とデートしたいでしょ?」
    「っ!」

     カッと頬に赤みが差したクラピカに、ネオンは「ほら」と言って笑みを深くする。こそこそと会話する二人に、はただ首を傾げた。

    「何を話てるんですか?」
    「別に! クラピカもの馬に乗りたいよねーって」
    「はあ……私の?」

     確かに、クラピカを乗せて馬に跨ったのは数えるほどしかないような気がする。あの頃はクラピカの方が華奢で、彼が前でが後ろだった。懐かしいな、と思うと同時に、気がつけば口に出していた。

    「今は、逆になりそうね」
    「え?」
    「今度馬に乗るときは、是非リードして頂きたいものだわ」

     自分の高さを超えてしまった年下の青年との背を比べながら、が冗談ぽく言った。

    「……そんな機会があれば、な」

     組を立て直さなくてはならない今はそれも難しい。彼女らの望みはまだ先になりそうだなどと思いながら、薄暗くなってきた空を見上げた。

    「そろそろ戻りましょう。父君が、心配します」
    「えー、もう? 時間が経つのって早いね」

     文句を言いながらも、ネオンはシートを畳むのを手伝った。
     幼少より、身の回りのことは全て他人が行ってくれていたが、現在ノストラード組合に仕えている使用人は数えるほどしか居らず、少しずつ、しなくてはならないことが増えていたネオンは、それを不満に思うこともなかった。ただ、自分はこんなこともしていなかったのかと、時々ひとり情けなくなることもあった。
     帰路について、屋敷が近くなった頃。楽しかった反面少し寂しげに俯いたネオンに気づいて、が声をかける。

    「また行きましょうね、ネオン様」
    「! ……うんっ」

     それからまた屋敷に篭る生活が続いて、再び外出の要請がきたのは、約半年後のことであった。

    to be continued...





      Back Top Next