クラピカの腕の中で、は静かに涙を流した。五年前は、小さな男の子だったのに。その腕は逞しく、年下のはずなのに安心感を得ずにはいられない。暫くしては顔を上げてクラピカを仰ぎ見る。
「……ふふ」
「? どうしたのだ、一体」
優しい笑みを浮かべる彼は、すぐ手の届く場所にいる。その現実が嬉しくて、は後から後から溢れる涙を拭うことはせず、黙って自分を包み込むクラピカに擦り寄った。
「五年……か。大きくなったね」
「……すまなかった」
酷いことを言った。荒んだ自分を優しい言葉で包み込んでくれた、唯一のひとだったのに。
目を伏せて何度も謝罪の言葉を繰り返すクラピカに、は小さく笑った。いつの間にか涙は引っ込んでいて、頬にくっきりと残った涙の痕をクラピカがなぞる。不意に我に返ったは小さく、けれど彼の耳に届くようにはっきりと呟いた。
「もう、待たなくてもいいの……?」
「……え」
「わたし、さ……あの時と気持ち、変わってないんだ」
好きだと、彼女は言った。クラピカも一度は応えようとしたが、蜘蛛への復讐にとり憑かれた彼は彼女の全てを否定して飛び出してしまったのだ。それでもは待ち続けた。待ってるからと、去り行く彼の背に思いを馳せて。
あの頃から変わらずにいること、告げた瞬間にクラピカは両手での肩を掴んで引き離した。弾かれたように上げられた顔は、信じられないというよりは戸惑いに近い。応えたいのに、それが禁忌であるかのように、怯えているようにには感じた。
「……あなたは? また私を、突き放すの?」
乾いた涙が、またじわりと浮かび上がる。どうか受け入れて。懇願にも似た眼差しに、クラピカは一度だけ合わせた視線をすぐに外した。
「私には、その資格がない……」
「なに、それ」
「私は……いつかきっと、旅団との戦いで命を落とすだろう……君を幸せには、できない」
傍にいては、きっと不幸になる。目を伏せながらそう言い切ったクラピカに、はやや憤慨した様子でクラピカの頬を両手でぺちりと叩いた。突然のことに驚いたクラピカは、眼を丸くしてを見つめた。彼女はそのまま――両手でクラピカの頬をはさみ込んだまま、ぐいっと自分の顔を近づけた。当然身長の低いがクラピカの顔を覗き込む形になり、近づいた距離に身動きができないでいると、真剣な顔をしたが静かに言った。
「構わない、と言っても?」
「!?」
「そんなの些細なことでしょう。私の幸せを、貴方がはからないで」
クラピカはを幸せにできないと言ったが、にとっての幸せは、そうではないのだ。
「私はあなたと一緒にいたいの」
「いや、しかし」
「私が、あなたと一緒にいたいの。そう決めたの」
「けど、私は……っ」
蜘蛛との戦いを、復讐を、止めることはできないだろうから。だから、一緒にはいられないと。どうか解ってくれと言わんばかりに渋るクラピカに、それでもは折れることはなかった。
「それでも、あなたの最期を看取るのは私がいいの」
姉シーラの最期を知ることもなかった後悔から、大切な人の最期くらいは目に焼き付けておきたい。そう強い思いを抱いて、はクラピカを強く抱きしめた。それだけの理由なら、拒む必要はどこにもないではないか。
「お願い……もう、ひとりで行ったりしないで」
「……」
「わたしを、ひとりにしないで……お願いだから」
伸ばされた腕に戸惑いつつ、の優しい言葉にクラピカは唇を噛んだ。それから小さく「負けたよ」と呟いて、自分よりも小さな背中に腕を回した。
「許されるのなら、最期のときまで一緒に……」
「勿論よ。離したら、今度こそ許さないわ」
どちらともなく重ねた唇の温かさに、今度は幸せな涙が女の頬を伝った。
私はこんなに涙もろかったっけ、と笑う女に、少年は久方ぶりの笑みを浮かべたのだった。
三日後。ノストラードの屋敷に戻ったクラピカは、ネオン嬢にを紹介した。それはの意思でもあり、彼女の現在の暮らしぶりを聞いたクラピカが、今よりはマシな生活ができるようにと彼女に仕事を与えたかったからでもある。病んでいる父親では話にならないので、まずは娘であるネオンに会わせると彼女はすぐにを気に入った。ヨークシンでの出来事以来、此処で働きたいという女はいなかったから、ネオンは話し相手が出来たことにとても喜んだ。は、クラピカからネオンの話は聞いていたのだが、予想以上だ、と内心驚いてはいたものの、可愛らしいネオン嬢に会って「妹が出来たみたい」だと嬉しくもあった。それから父親へは娘の新しい侍女を見つけたという事後報告である。クラピカに組のことを一任しているライト・ノストラード氏は特別文句を言うことはなく、に「ネオンを頼む」とだけ言ってまた居室に篭ってしまった。
「ねぇ、着方ってこれで合ってるの? 変じゃない?」
「……ああ、よく似合っているよ」
「なあにそれ。本を片手に言う台詞なの?」
更にそれから二日経ち、支給された侍女の制服を身にまとって恋人の前でくるりと回って見せた彼女は、相手の態度に唇を尖らせた。
「これからずっと一緒にいるんだから……一々反応していたら疲れてしまうよ」
「あら、随分冷めているのね。可愛げのないこと」
「貴女だって、私より大分年上じゃないか……大人気ない――あたっ」
「だいぶとか言うな!」
机に詰まれた本を一冊取り、投げつける。念能力を持つ彼にとっては些細な攻撃に過ぎないが、彼女が年上であることを少し引け目に感じているのは知っていたので、これ以上余計なことを言ってへそを曲げられても困る。クラピカはやれやれとため息をひとつ吐き、読みかけの本を閉じた。
「どんな格好だって、誰が言ったって、私にはだけだよ」
「……私にだって、貴方だけよ。クラピカ」
そんな二人のやり取りを、センリツが微笑ましそうに眺めていた。
「それじゃ私、お嬢様のところに行って来るわ」
「ああ、頼む」
を見送るクラピカの、その優しい横顔に、センリツはくすりと笑みを浮かべる。どうした? そう目を丸くしたクラピカに更に笑みを深くする。
「なんでもないわ。羨ましいですこと」
「……?」
そう二人を祝福する反面、幸せそうに笑う女性が奏でる静かな心音に、センリツは切ない気持ちになった。この先何があっても受け入れる、覚悟を持った音であると感じた。
なんでもない、とだけ言ったセンリツに、それ以上詮索することなく再び本に視線を落としたクラピカ。自分も部屋に戻ろうとしたセンリツだったが、遠くに聞こえる声に足を止め、が出て行ったドアをじっと見つめた。それからしばらくすると、ドタバタと足音が振動で伝わり、センリツに遅れてその気配に気づいたクラピカは、まだ閉まっているドアを見つめた。
一瞬の間。バタンとドアが、勢いよく開かれる。
「ねー! 二人とも来てっ! みんなで大富豪やろうよー!」
明るい顔をしたネオン嬢が、トランプの箱を手に二人を呼んだ。その後ろには苦笑を隠せずにいるの姿も見えて、クラピカは逆らえるはずもなく重たい腰を上げたのだった。