クラピカが村を飛び出してから五年が経った。今はその場所に、何も残されてはいない。……というのも、二年前に村は流行り病に冒されてしまったのだ。
村唯一の医者はもう既に虫の息。被害が拡大してゆく中、は得意の馬術を活かして麓の街まで駆けた。クラピカと行った隣の村も既に病がきていたから、もっと遠くへ。自分自身にも初期症状が出始めていたから、途中で息絶えるかもしれないと覚悟しながら。それでも必死に治療法を探して彷徨い続けたを、とある街の医者が救ってくれた。その街の人たちはとても優しく、病に効く治療薬の製法を記したメモをへと手渡した。薬のお陰で回復したはすぐに故郷の村を目指して進んだけれど、帰ってきたときにはもう、生きていた人はいなかった。
ああ、クラピカはこんな気持ちだったのかと、心臓に大穴があいたようだった。
「きたよ、先生」
バケツに汲んだ綺麗な川の水と摘んだばかりの花を手向ける。本当はお酒なんかがあれば喜ばれたのだろうけれど、生憎家すらもなくしたにはそんな高価なものを買うだけのお金が残されていない。今は自分を救ってくれた街で、そこに暮らす人たちの助けを受けながら何とかやっている状況だ。日雇いの仕事をして毎日の食い扶持を稼ぐほどで、収入は雀の涙。それでも、月に一度、必ずこの場所を訪れる。ずっと一緒に生きてきた、もう年老いた馬と一緒に。
綺麗な石を積み上げただけの簡素な墓だ。一人では荒れた土地を開拓することもできず、こうして墓参りをするくらい。五年前にが救った少年を、無償で請け負ってくれた心優しい医師だった。の稼ぎも微々たるものだったが、今よりはマシだった。あの頃もよく、お礼として差し入れをしたものだ。懐かしく、悲しい思い出に涙が出る。
「助けてあげられなくて、ごめんなさい」
多くは無かったけれど大切な友人。小さな村だが、親戚だっていた。それでも、皆死んだ。運命とは時として無慈悲で残酷だと思い知った。
「……貴方は今、どうしているのかな」
クラピカ。生きる希望を見出せない、憐れな少年。そして、実らない可哀想な私の初恋……と、は溜息を吐いた。
雨上がりの森で崖下に転落して動けずに居た少年を保護して、一人で寂しかった家に招いたことが全ての始まりだったと思う。若さゆえか、日に日に良くなっていく彼を姉のような気持ちで見守りつつ、惹かれている自分に気づかぬフリをした。じきにやってくる別れにそなえ、胸の底に隠していたのだ。けれど、嘘を吐き続けることは不可能だと悟った。一緒に行こうと告げられた瞬間に、そんな秘め事は無かったかのようになった。不安で、伸ばされた手をすぐに取ることができなかった。もしもあの時、彼の手を迷わず掴めたなら。あんな別れはしなくて済んだのだろうか。
『私のことは、もう放っておいてくれ!!』
そう言って、クラピカはようやく手を伸ばしたの腕を振りほどいて去って行った。は手を伸ばすのが遅すぎたのだ。
『私、待ってるから!! ……いつか必ず、戻ってきて!』
そう告げるのがやっとで、搾り出した思いは彼に届いたのだろうか。わからない……が、彼女は未だに思うのだ。あの人は今どこで何を想い、何をしているのだろう――と。自分じゃない誰かと歩む彼を想像して胸が痛む。彼女は、本当に彼のことが好きだったのだと。
「……、今日はもう帰るね。また来月に」
誰にも聞かれることのない呟きの後、馬に跨る。帰っても何もない、誰も待ってなどいないのだけれど、それでも自分は生きている。いつかきっと、生きていて良かったと思える瞬間がやってくると、昔姉のシーラが言っていたから。もう消息の不明な人の言葉など全く説得力がないのだが、それでも信じていたいから。
一ヶ月なんてあっという間だ。半日以上かけて街に戻ると、そこからはいつもの生活が始まる。馬の世話をしながら日雇いの仕事をして、食費を稼ぐ。幸い心の優しい大家さんが雑務や言いつけをこなすことで無償で部屋を貸してくれるから、然程生活が苦しくなることは無かった。それでも、何か物足りない、今ひとつという思いは拭えずに居た。何て罰当たりなんだろうと思うが、そんなものだ。寝て起きて馬を磨いて干草を与えて、大家さんに挨拶をして今日の予定を聞いて自分の一日に組み込む。荷運びがあれば手伝うし買出しがあれば自分が行く。空いた時間に合わせてその日の仕事を探し、稼いだ金で数日分の食料を買う。仕事がみつからない時は、水と草で飢えを凌いだ。みすぼらしくも浅ましい生活を余儀なくされた。三日に一度食事ができれば良い方だ。この街の人々は、ずっとやさしい方だ。
何の希望もないのに生き続ける、というのは大変なことだ。しかし、私の胸にはある目標が立ちつつあった。それは、私の元を去って行った彼を探すために、ハンターになろうかなとか、そういう程度。シーラは多分というかかなりの確立でもう、死んでいるだろう。しかしクラピカは、生きていてほしいという私の想いが、姉以上に強かった。生きて、いつかハンターとなって私から会いに行こう。どれだけ変わっていても良い。この気持ちに蹴りをつける意味でも、そうする必要があった。そして、私はまだ貴方が好きだと伝えよう。この気持ちはずっと変わらないと。クラピカはそんな私を見て何というだろう。おかしなやつだと笑うだろうか、もう近づくなと怒るだろうか、それとも何も言わずに今度こそ姿を消してしまうのだろうか。わからない。今は想像したくもないのかもしれない。プロハンターとなった彼が復讐者となって、犯罪者を追い続ける犯罪者となってしまうことが、怖いんだ。
馬を下りて先生の墓へと向かう。すると、誰もいないはずの荒野に声が響いた。
「誰か、誰かいないのか!?」
それは、中世的な青年の声。旅人が迷い込んだのだと思い、私はその声の主を探した。探すと行っても目的の場所と同じ方向から声が聞こえてきたので、ただ真っ直ぐにその場所へと向かうだけなのだけれど。
村の中へ入っていくと、先ほどの声の主であろう人物が佇んでいた。黒のコートを羽織り、金糸の美しい髪が風になびく。失礼かと思ったが、放っておくのも無礼な気がして声をかけた。
「この村は二年前、流行り病で全滅したのですよ」
この村に知人でもいたのだろうか。そう思い続けようとしたのだが、ゆっくりと振り向いたその人物の顔をよく見て、私は声を失ってしまった。美しい金の髪に、整った顔。見開かれた双眸がうっすらと赤みを帯びたことで、それは確信に変わった。
「く、ら……!?」
「……なのか!?」
ああ、本物だ。本物の、クラピカだ。背が伸びて、声が少し低くなって。だけど、驚いた顔がまだ少しあどけなくて、五年前の彼と重なった。そう安堵した瞬間、私の両目からはぼろぼろと土砂降りの雨のように大粒の涙があふれ出た。嗚咽交じりに、それでも何か言わなきゃと必死に思いを巡らせた私は、ようやく一言、
「なんだ、わたしのお願い。ちゃんと聞いてくれたんだ」
それだけ搾り出した。いつか必ずと、確かそう言ったんだっけ。五年前はまだ自分より小さな背中にそう投げかけた。単なる気まぐれでもいい。顔を出してくれたことに、それだけで私は「生きていて良かった」と、思ったのだ。それからクラピカは、あの時のように泣きじゃくる私を突き放すことはせず、大きくなった両腕で私の身体を抱きしめた。
「……すまない」
耳元で囁かれた言葉に、私はもう夢でも見ているんじゃないかってくらい幸せな気分になった。