「もしも故郷へ戻るときは、この子を連れて行ってね」
三日前、アウラはそう言って一頭の馬を、クラピカの前に手綱を引いてやってきた。少し小柄だが人慣れしたその馬は、クラピカにもよく懐いていた。これしかできることがないからとアウラは言ったが、クラピカは十分すぎるほどたくさんのものを貰ったと深く頭を下げて感謝の意を示したが、アウラはこれをあまり良しとしていなかった。彼女は一体何を求めているのだろうと一瞬彼の脳裏を掠めたが、それはすぐに消え、次に飛び込んできた情報で頭がいっぱいになった。
「隣町の医者が戻ってきたみたいよ」
明日会いに行こう。そう言って、ようやく医者に会いに行くことが出来たのが二日前。医者は親身にクラピカの話を聞いてくれて、手術の方法も詳しく話してくれた。それを聞いて彼は確信したのだった。この医者なら、パイロの目を治してくれる。もしその術がなくても、きっとその方法を探してくれるに違いないと。だが、すぐに出発することはできないと医者は言い、二日待ってほしいと告げた。その間に残った仕事を片付けてしまうから、と笑ってクラピカの頭を撫でた。隣で話を聞いていたアウラも、良かったねと微笑んでいた。そして、約束の日が今日なのだ。いよいよ、別れる日がやってきたのだ。
「忘れ物、ない?」
「ああ。大丈夫だ……本当に、長い間世話になったな」
「そんなに長くもないわよ。……短かったなぁ」
アウラは感慨深げに空を仰いで呟いた。クラピカは長い間と言ったが、アウラはそれを短いと言った。
「寂しい、けど……仕方ないもんね? あなたは、Dハンターみたいな立派なハンターになるんだものね」
そんな風に弱々しく微笑んで、アウラはクラピカを真っ直ぐに見つめる。頑張ってね、と。そんなアウラの顔を見て、クラピカの決心がわずかに揺らぐ。
「アウラ……なら、私と、来るか?」
「……え?」
言ってから、クラピカは「なんでもない、忘れてくれ」と取り繕うかのように重ねて言った。アウラは返答に困って、困り果てて、
「なんで……」
震える声で、ようやくそれだけ呟いた。
「忘れようって、そう思って……だけど、なんで。こんな気持ちに……なるんだろう」
「アウラ?」
不思議そうに、アウラの顔を覗き込んだクラピカだったが、アウラは勢いよく顔を上げて後ずさる。今、顔は見られたくないからと。だけど、一瞬だけ見えたアウラの顔は明らかに熱を帯びた表情で、まるで外の世界に焦がれた幼い日の自分達のようで。クラピカは、逸る鼓動を必死に抑えた。ああどうか、赤くなるな、緋の目。
「わたしは、キミが……好きなんだって――」
「っ!!」
幸い、瞳が赤くなることはなかった。が、代わりに顔に熱が集中して真っ赤になった。もしもと思っていたそれが、今になって実現するなんて。クラピカは震える手をアウラへと伸ばした。もし、この手を掴めたなら。自分は、親友も愛する人も夢も何もかも、諦めることなく未来へ歩いてゆけるのでは――と、そのときは本気でそう思っていたのだ。
「……っ!!」
びくりと震えたアウラが後ろへと下がると、彼女がぶつかった衝撃でテーブルから朝刊がばさりと落ちた。クラピカが旅立つための準備で、今日はまだ開かれていない新聞。
「あ……」
伸ばした手を避けられて、ちくりと胸が痛んだ。やはり、彼女を連れて行くことは無駄なのだろうか、と。空を切る、やり場のない手を仕方なしに床に広がる新聞を拾うために伸ばした。それを拾い上げて、クラピカの思考が停止する。
「………………………………え?」
記事のトップには、とある一族の虐殺のニュースが書かれていた。その紙切れを見つめるクラピカの顔からは血の気がどんどん引いていって、アウラは尋常じゃないその様子に目を見開いてクラピカの後ろに回り、その記事を覗き込んだ。
「っく、る……え?」
クルタ一族、何者かに虐殺
発見したのは、森に迷い込んだ旅の女性。村人は百二十八人全員が殺されていた。
家族はそれぞれ向かい合わせに座らされて体中に刃物を刺され、生きた状態で首を切られていた。
純粋なクルタ族は全て両目がえぐり取られ……
「…………」
そこまでを読んで、アウラは眩暈を覚えた。その森の名前は、ここから馬で数日あれば行けてしまう距離にあった。そんな近辺で事件が起きたことに対する恐怖からであったが、そっと隣の少年の様子を盗み見て、彼女は驚愕した。彼の記事の文を追う瞳がみるみる緋に染まってゆくことに。
「あか、い、め……」
記事にあった、緋の眼という文字を思い出して、アウラは息を呑んだ。外界を拒む、少数民族。彼もその一人であったということを、理解したのだ。
「……う、ああああああああッ!!!!」
紅い眼に明らかな怒りの色を宿しながら、叫び声を上げて家を飛び出そうとするクラピカの腕を、アウラは反射的に掴んだ。
「待って!!」
「離せ!! し、信じない……私は信じないぞ。この目で見るまでは、絶対に――!!」
「待ってよ。なら、私も行くわ!」
「……!?」
緋の眼を見ても臆することなく、アウラはクラピカの瞳を真っ直ぐに見た。彼の怒りを最もだと理解して、その上で、一人にはしておけないと。今し方好意を自覚したばかりの二人は、そんなことは頭から欠片も消し飛んで、ただ記事の真偽を確かめるためだけに馬に跨った。
そこは、何もない荒地へと変わっていた。家の屋根は吹き飛び、人々は心優しいハンターたちによって弔われたあとだった。この惨状の第一発見者だという女性にも会ってきたが、結局、生き残りは見つけることができなかった。
「……」
クラピカが悔しさで拳をきつく握る。その手には、一枚の紙切れが握られていた。とある家の壁にあった、賊が残したと思われる血のメッセージを書き取ったものだ。
『我々は何ものも拒まない。だから我々から、何も奪うな』
そのメッセージには、覚えがあるとハンターの一人が言った。話を聞いていくうちに、A級首の盗賊"幻影旅団"が、浮かび上がったのだ。
「くそ……何が『奪うな』だ。奪ったのは、奴らの方じゃないか……!!」
紅い瞳は褪せることなく、クラピカは仲間達の墓標の前で叫んだ。
「絶対に、私が!! 幻影旅団を一人残らず倒し、同朋の瞳を見つける……」
「……クラピカ」
無理だとも、止めておけだとも、アウラは口にはしなかった。否、彼女には言えなかった。姉の消息がわからないアウラにとって、仲間や家族の最期を看取ることもできなかった少年の気持ちが、痛いほどよくわかったから。
「クラピカ、一度戻ろう……まずは、落ち着いて――」
「いや……私は、もう行く」
「だ、けど。我武者羅に向かっても意味なんかないわ。情報収集を……」
アウラがクラピカを引き止めておきたかったのは、真っ直ぐすぎる彼が、冷静なようでいて直情的な少年が、危ういと感じたからだ。少しでも傍で、助言してあげたかった。しかし、その意図はクラピカに伝わることはなかった。
「私のことは、もう放っておいてくれ!!」
「!?」
「もう意味などない。……さっさと出ればよかった。医者が帰ってくるのを待たずに、探しに行けばよかったんだ……最初から、無駄だった!」
我を忘れたクラピカからは、刃物のような言葉しか生まれない。それが本心ではないと知っていながら、それを笑って受け流せるほどアウラも大人ではなかったのだ。
「……っ」
彼女の両目からあふれる涙を見て、クラピカは自分の発した言葉の意味を理解した。しかし、もう取り消すことはできない。後戻りはできない。彼女はただ一人、緋の眼を見ても恐れることなく接してくれたというのに。
アウラの涙を極力見ないように、自分の感情を押し殺して、クラピカは背を向けて走り出した。嗚咽交じりに、少年の背中に向かって娘が叫ぶ。
「クラピカ!! 私、待ってるから!! ……いつか必ず、戻ってきて!」
引き止められないのならせめて、彼の心の在り処でいたいと。そうアウラは思ったのだ。もう二度と失いたくないと思っていたのに、また失ってしまうかもしれない……そんな絶望を抱きながら、アウラはそっとクルタ一族の墓前で彼の無事を祈った。
(せめて貴方だけは、死なないで……)