「アルミン、本忘れてってる……」
余程急いで行ったのが見て取れる。広げたまま置き去りにされた彼の宝物を静かに閉じると、は大切そうにその本を抱きしめた。明日返そう、そう呟いて。
「? お母さんちょっと買い物に行って来るから、お留守番頼めるかしら」
「あ、うん。行ってらっしゃい。気をつけてね!」
「……勝手に出かけちゃダメよ?」
「わかってる!」
以前、無断で外へ出て心配をかけて以来、何かと釘を刺されるようになってしまったが、はもう心配はかけまいとしているし、母もそれを解っているから、からかうような口ぶりでそんなことを言う。行ってきます、と玄関から聞こえてくる母の声とドアが閉まる音を聞き流しながら、はアルミンが置いていった本を開いた。何度か見せてくれたその中身は、相変わらず広い世界のことが描いてあって、は恍惚の表情でそれを見つめた。いつか、外の世界に行こう。それは幼い子供の口約束。例え夢物語だとしても、彼女は嬉しかったのだ。
しかしそれは、突如起こった事件によって壊されることとなる。
「……っ!?」
大きく地面が揺れる。地震? いいや違う。咄嗟に感じた。何か、とてつもない何かが起きたのだと。
困惑するの耳に、再度、劈くような轟音が届く。それは、得体の知れない破壊音だった。
「何、何が起きたの? ……お母さんは!?」
母は無事だろうか。だけど、勝手に出るなと言われているし、どうしよう。部屋のドアノブに手をかけたまま固まっただったが、外から聞こえてきた悲鳴に我に返る。
「巨人だ! 巨人が入ってくるぞ――!!」
「早く逃げろ!!」
「……え、え?」
きょ、じん?
何かの聞き間違いだろうか。この五十メートルの壁で覆われた町に、巨人が入ってこれるわけがない。しかし、そんなの考えを否定するかのように聞こえてくる「壁が破壊された!」という声。少女の身体に戦慄が走る。逃げなくては。咄嗟にそう思い、ドアを開ける。
「……アルミンに、返さなきゃ」
分厚い本を抱えて、は家を出て走った。どこへ逃げれば良いのかなんてわかる筈も無いが、逃げ惑う人々の波に乗れればなんとか、なんて考える。けれど、それは甘い考えだったのだ。
「……は、ひっ」
息が上がる。今まで全力疾走などしたことのない少女にとって、それは初めての経験だった。
幸い巨人の姿は見えない。だが、悲鳴が上がる場所は決して遠くはない。急な運動のせいで熱が上がり、頭がぼんやりとしてくる。もう、動きたくない。脳がそう告げているが、それでも心の奥底にある本能が云うのだ。走れ、逃げろと。
「……っ、」
言いつけ、破っちゃった。お母さんごめんなさい。もしかしたら入れ違いになっているかも知れない。心配をかけてしまっているかも。
走りながら、母を思い浮かべる。けれど、現実はとても残酷に、押し寄せるもの。
「え……っ?」
巨人が投げたのだろう木片や岩がそこら中に転がっているのを、途中で嫌と言うほど見てきた。これもそのひとつなのだろう。だけど、その下敷きになっているものには、見覚えがあった。見間違いだと思いたかったけれど、否定する暇すらも与えられないまま、脳が悲鳴を上げる。
「お、か、あさ……」
もう、手遅れだと。
「あ、あぁああ……!!」
状態を確認する余裕も、考えも最早そこにはなくて。苦しくなって、はただただ走った。
アルミンに、会いたい。
いつものようにわらって、だいじょうぶって、そして――
『一緒に、外の世界を見に行こう!』
幸せな夢を、もう少しだけ、見て居たかったのに。
「あ……う、」
目の前に広がる、大きな影に、飲み込まれて。
それから、彼女は。
「ごめん、ね。アルミン……」
彼の宝物を抱いて、眠ることにしたのだった。