目の前の光景に、眩暈を覚える。
嘘だ、と嘆いたところで、何かが変わるわけでもないのに。
周囲の悲鳴と突如壊された日常の中、一人でも多くを救うためにという大人達の偽善に阻まれて、彼の伸ばした手が彼女に届くことはなかった。
近所の子供たちと言い争いになった――というよりも一方的に殴られていた――アルミンは、殴られた頬を押さえながら隣に座るエレンに全てを話した。あそこで運良く通りかかったエレンとミカサが駆けつけてくれなければ、きっともっと殴られていただろう。だが、差し伸べられた手を取ることができなかったのは、自分も負けずにこの理不尽な世の中と戦おうと決意した手前、誰に話したわけでもないのにばつが悪かったのである。情けなかったのだ。誰よりも、自分自身に対して。
特に考えてはいないのだろう、エレンはアルミンの言動に対して首を傾げただけで追求してくることはなく、こうしてアルミンが話す”一般論”に舌打ちをした。
「そういやアルミン、お前本はどうしたんだ?」
「え? ……あ、の家に忘れてきたみたいだ」
「そうか。じゃあ今から取りに行くか?」
「いや、いいよ。一日に何度も押しかけたら、もきっと疲れちゃうだろうし」
それに明日も行く約束をしているし、ということは自分の胸だけに留め、アルミンはエレンとミカサの話に耳を傾けることにした。話の中、エレンがミカサによって思わぬ形で両親に調査兵団に入隊を希望していることを打ち明けることとなってしまったというので、アルミンは目を見開いた。それで、どうだった? 問いかけに対して、やはりというべきか、エレンの表情は明るくない。そもそも、だからこそ自分たちは異端だと言われるのだ。親が、自分の子供を危険に晒したいはずがない。
「……なんで、なんだろう」
「アルミン?」
少し前の自分だったら、外の世界には行きたいけれど、結局は夢の話だと諦めていただろう。今だって心の奥ではそう思っているけれど、でも確かにそれは勇気となって変わりつつある。彼女の、の存在によって。
だからこそ、過去の自分に対して、今も尚現状に満足している人たちに、こんなにも苛立つのだ。
「この壁の中は安全だなんて、誰が決めたんだ。百年平和が続いたからって、明日も、いや、今日――壁が壊されない保障なんかどこにもないのに」
誰に言うでも無く独り言のようにアルミンが呟いた。間を置いて、エレンが声をかけようと口を開きかけた――直後。
「!!?」
脳まで響くような轟音が、地面を揺らす。周囲の大人たちも何事かわからないようで、町中が困惑していた。
エレン、ミカサと共に音のする方へと向えば、空を見上げている人が数人いて、アルミンはつられるようにして壁を見上げる。そこには、今までには見たこともないような光景が広がっていた。
「あ、あ……」
蒸気のような煙を吹き上げながら、五十メートルもの高さの壁から手を、次いで顔を出したのは、紛れも無く我ら人類が恐れている巨人だったのだ。
「動くぞ!!」
遅い動作で、しかし確かに狙いを定めた巨人の更に巨人は、ウォール・マリア最先端の町、シガンシナ区の壁を蹴り破ったのだ。先ほどよりもずっと鈍く、それでいて鼓膜が張り裂けそうなほどの音が鳴り響いて、壁の一部が瓦礫と化して空を飛んでいった。
逃げなきゃ。指先の震えの後に遅れて頭にやってきた司令に、アルミンは二人を振り返る。だが、既にエレンは走り出していた。逃げるために内門へではなく、町の中心に向って。
「エレン!?」
「壁の破片が飛んでいった先に家が……母さんがっ!!」
青い顔で走っていくエレンの後を、すぐにミカサが追った。そこでアルミンは気がつく。反対方向には、の家があることに。
「……ダメだ、もう、この町はっ」
それでも、見捨てるなんてこと、出来るわけがない。震えて動かない手足を叱咤する。動け、動け、動け。
大好きな友達を、親友を、好きな子を、守れないなんて。調査兵団に志願する意味がなくなってしまうじゃないか。
「アルミン! おお、こんなところに居ったか」
「お、じい、ちゃん……」
逃げ惑う人々の波に紛れて、祖父が自分を見つけてくれたことに安堵を覚えた。が、早く逃げようと手を引かれた瞬間、我に返る。
「待って! ダメだ、エレン達を置いて逃げられない!」
「お前が言ったところで何になる! 早く船に乗るんじゃ」
いくら老いたとはいえ大人の力には敵うはずもなく、引きずられるアルミン。そこへ、緊急時で真剣な顔をした駐屯兵のハンネスが駆けつけた。
「どうした!?」
「は、ハンネスさん! エレンとミカサが、おばさんを助けに家に――」
何とかそれだけを告げると、ハンネスは急いで向った。のことは伝えられなかったが、どのみち家は正反対なのだ。どちらも助けに行くなんてこと、できるわけがない。
「……行くぞ、アルミン」
「嫌だ……なんで、こんなことに」
祖父に引きずられるまま、どうすることも出来ずにアルミンは涙を流した。の家のある方角を見れば、あちこちから煙が上がっていた。
願わくば、どうか逃げられますように。
けれど、船の中をどう探しても、の姿は見つからなかった。
見つかるはずがないのだ。彼女は身体が弱くて、走れなくて、逃げ延びられる可能性など、万に一つもなかったのだから。
「お前が行っても、変わらんよ」
慰めに祖父がそう言ったが、それでもアルミンは自分の弱さを嘆いた。間に合うとか間に合わないとか、こればかりは理屈ではないのだ。
自分は彼女を見捨てた。それだけが、今ある事実だった。
――アルミンはきっと調査兵団になれる。私、応援してるから!
「――」
あれが最期だなんて、認めたくない。
しかし幾日経っても、他に子供が生き残っていたなどという情報は無く、アルミンは絶望した。
初恋の彼女は、その想いを打ち明ける前に遠くへ行ってしまったのだ。