本を広げて、彼は空と海を指差した。どこまでも透き通るような、蒼。無限の可能性を秘めた色であるように感じると同時に、思ったことを口にする。貴方の瞳の色ね。そう言うと、彼は照れくさそうに笑って見せた。
「いつ見ても、不思議。壁の外には、こんなにもいろんな世界が広がっているなんて」
「……エレンは、いつか外の世界に行こうって。だけど僕は、少し怖いんだ」
そっと本を閉じて、アルミンが申し訳無さそうに呟いた。どうして? たずねると、彼は消え入りそうな声で、だってと答えた。
「外には巨人がいる……僕ら人類は、奴らには絶対に勝てないんだ」
それがどんなものか、見たこともないには実感がわかない。しかしそれはアルミンとて同じことなのだが、頭の良い彼にはそれがどんなものか想像することができる。三メートル、五メートル、十メートル。それがどんなに大きくて、人間がちっぽけなものなのか。アルミンには、解ってしまうのだ。
外には行きたい。エレンと一緒に、夢を見ていたい気持ちは勿論ある。しかし、それを堂々と口に出来るほどアルミンは強くない。俯いた彼の耳元で、が呟いた。
「透明人間になれたら、いいのにね」
「え?」
考えもしなかった言葉に顔を上げたアルミンを、はにっこりと笑んで見つめた。
はアルミンの言うことを、偽りや大袈裟だとは思っていない。壁内にある村の外でさえ満足に出られない少女にとって、ただ一人の友人の言葉はそれだけで信じられるものだったし、アルミンの心配ごとも正しいと思っていた。
だからこそ彼女は、ありもしない非現実を、もしもの話として楽しそうに語るのだった。
「透明人間になったら、きっと壁なんかスーッと通り抜けちゃえるわ。それに、巨人に食べられる心配もないじゃない」
「……うん、そうかもね……そんな非現実は、考えるだけ空しい気もするけど」
天井に手を翳し、透ける光に目を細める。そんなとは対照的に俯いたアルミンは、閉じた本の上で握り拳を作った。
「それこそ夢の無いこと言わないで、アルミン。だっておとぎ話は夢を与えるものでしょう? 私達は、人類は夢を見ないと生きてはいけないのだから」
夢を見て生きていれば、いつかきっと、報われる日が来るから。想像とは違う形でもいい。満足いかないかもしれない。それでいいじゃないか。今より良ければ、それが最良なのだ。
「……強いのはのほうだ」
初めて外の世界の本を彼女と見たとき、は「アルミンは強い」と言った。外の世界への思いを素直に口に出来ることは、とても強いのだと。
悔しそうに下唇を噛み締めるアルミンの拳に、が自分の手を重ねる。
「そんなこと、ないよ?」
「!」
「アルミンが教えてくれたから、私は外の世界に夢を見ているんだよ」
きっと、エレンもそう。全ては、アルミンの夢が始まりなのだ。
「私達に外への憧れを、生きる希望を与えてくれたのは、アルミンなんだよ?」
そんなアルミンが、弱いはずがない。微笑みと共にそう言い切ったに、アルミンは小さく頷いた。
「うん……ありがとう」
しかし、透明人間か。もしも本当にそうなれば、そんな風になれたなら、どんなに素敵なことだろうかとアルミンは思う。そして考えた末に、彼はこう結論付けた。やはり自分は、外の世界への希望は捨てたくないのだと。
「透明人間じゃなくても、いつかこの世界から巨人がいなくなったら。この先人類が発展して、それに近い方法が得られれば――」
「……ねえ、アルミン」
「?」
唐突にスイッチが入り思考を始めるアルミンの服を、が控えめに引っ張った。
「その方法を、貴方が見つけてくれたらいいなって、わたしは思うの」
「え……」
「アルミンは頭が良いから、きっといろんな発見ができるよ。わたしなんかより、ずっと人類の力になれるはず」
は自分の体のことをよく理解していた。そうした上で、アルミンの背中を押そうと思ったのだ。大人になるまで自分はきっと生きてはいないだろうから。自分の代わりに、アルミンには夢を叶えて欲しいと。彼女は最近でこそ、そう思うようになったのである。
「そんな風に思わないでよ。そりゃ、僕だって自分は役に立たないって、そう思うことはしょっちゅうあるけど。でも……僕だってに会えたから、夢を共有できる友達が出来たからこそ膨らんだ希望なんだ」
「……でも」
互いに自分を貶したり、支えあったり。おかしな関係だけれど、今はそれでいい。
顔を見合わせて笑えば、それだけで素敵な時間がそこには生まれる。アルミンはに、右手の小指を差し出した。
「ねぇ、約束、しようよ」
「……アルミン?」
「一緒に、外の世界を見ようって。今の僕たちは無力かも知れない。でも、エレンもミカサもいる。大人の人だって、力になってくれる人はいるはずなんだし」
諦めなければ、きっと夢はかなう。
そう、希望を捨てていない瞳を向けられて、は戸惑い気味ではあるもののしっかりと頷いてから、差し出された小指に自分のを絡ませた。
つないだ小指を嬉しそうに見つめて、は小さく笑った。
「透明人間と、どっちが非現実かな?」
「え? うーん、今はどっちも、難しいかもね」
でも、そう遠くない未来にはきっと。
「いつか、この現状を切り抜ける方法が見つかるよ」
まずは、それまで生きていること。
はっきりと口にすることで、それは非現実から突如現実味を帯びだして。は切なげに目を伏せるほかなかった。
しかし、だからこそ、少女は夢を馳せるのだ。絶望しか生まれない壁外に、有り得ない希望に。
「難しくてもいい。わたしも、外の世界を見たい。アルミンと、一緒に……」