「豊漁祭……」
深夜。水を飲みに階下へやってきたは、暗がりの中で月明かりに照らされた掲示板を見つめた。新しく貼られたばかりの紙には、でかでかと祭りの文字。
豊漁祭とは港町ファナンで年に一度行われる感謝祭で、海の恵みを祝うものなのだそうだ。そこの出身である女性が自慢げに話していたのをとてもよく覚えている。
海と聞いて、は懐かしさに胸が締め付けられそうになった。帰ってしまいたい。そう思わずにはいられなかった。けれど、まだ何も見ていない内から逃げ帰ってしまうことは、できるはずもない。そんなことをしてしまえば、苦渋の決断で自分を送り出してくれた家族や仲間たちに何と言い訳して良いのかわからないのだから。
「港、かぁ……」
それでも、少しだけ惹かれてしまう事実。郷愁に耽るほど長い時間離れていたわけでもないのに、もうずっと、何年も経っているみたいな錯覚に陥った。
渇いた喉にごくりと唾を飲み込んで、湿った唇で音もなく呟く。行ってみたい。そういった気持ちは大きいが、自分から伝えるのは何だか憚られる。この場所へやってきてから部屋に篭もりがちになってしまったことで、自分の気持ちを伝えることも億劫になってしまったは、他人との距離感がよく掴めないのである。話を聞いてくれるシャムロックですら、多忙な日々の中で祭り事に行ってみたいなどと我侭を言っては迷惑になるのではないか。優しい彼も、きっと自分を拒むのではと、感じてしまうのだ。
「……」
そんな少女の姿を、「彼」だけが見ていた。
「え……?」
数日後、彼女の部屋を訪れたのは彼女が心のドアを隙間程度に開いていると思われる幾人かの騎士と、先日出会ったばかりの少年であった。
寝ぼけ眼で団長のシャムロックを見上げるは、告げられた言葉に耳を疑った。
「早く支度しなさい。出かけるから」
再度、シャムロックは優しく告げる。戸惑いと困惑が渦巻く中、肩身狭そうにしている同い年位の少年と目が合って慌てて反らす。初対面のあの日以来会話もしていないのに、どうして彼が自分の部屋の前にいるのかもわからないままのに、今度はイオスが口を開いた。
「今日は豊漁祭だよ」
「!」
「……お前が望まないのなら、我々は無理にとは言わないが」
穏やかな微笑みとは裏腹に、イオスの口調はどことなく意地悪だ。期待と不安が半々。それでも、自分のことを思ってくれる人が居るという事実に、は泣きそうなくらい嬉しかった。気が付けば、「行きます!」即答していたほどに。
「……」
「……おい」
「…………」
「……、僕はとても歩きづらい」
馬車を降りてから、はイオスの外套を掴んだまま離さない。ファナンの街を歩きながら、彼女はフードを目深にかぶり、人目を気にしてばかりいる。
「折角なんだ。楽しんだらどうだ?」
「で、も……ひと、が」
「人を怖がっていたら、騎士は務まらないだろう」
「うぅ」
余計に手に力がこもるに、重症だなとイオスは溜息を吐いた。それから彼はそっとの手をほどいて、彼女の斜め後ろを歩いていたアルバに視線を送る。
「僕らは留守番の騎士達に土産を見繕ってくるから、自由に回っておいで」
「だっ、わ、わたしも行きます!」
「……ダメだよ。ちゃんと、歩かないと」
頼んだと言わんばかりの目配せに、アルバはに気づかれないようにしっかりと頷いてみせた。イオスから手を離されて、シャムロック達に置いていかれて、は俯いたまま行くアテもなくとぼとぼと歩いていた。
「あ、」
「……!」
「前、見ないと。危ないよ」
急に手を引かれて驚いて立ち止まれば、通路を団体客が横切っていた。自分より背丈の高いそれに巻き込まれたら、恐らく弾き飛ばされていたことだろう。振り返り、お礼を言おうと唇を開閉させたが、言葉にはならなかった。
「……こっち」
アルバはアルバで、に対してどう接して良いかわからないままだった。咄嗟に手を掴んでそのまま歩いているけれど、こんな風に女の子と関わるのは初めてなのだ。幼馴染の少女たちとはわけが違う。
「この前は、ごめん」
「え……」
「気にしてるの、知らなくてさ。召喚獣とか言っちゃって。……派閥でのこと、少しだけ団長に聞いたよ」
「っ!」
「でもおいら、そういうの気にしないからさ」
化物とか、そういった意味で言ったんじゃない。ただ、不思議だっただけなのだ。それを知って欲しくて、アルバは正直に話をした。自分は孤児で、沢山の召喚獣に、血の繋がりのない仲間たちと暮らしていたこと。でもそれは全く苦ではなく、寧ろ何よりも幸せなことだとアルバは感じている。
「生まれた世界が違ったって、言葉で通じ合えるんだから。君だって……自由騎士団の仲間じゃないか」
話を聞きながら、は、初めてアルバという少年の顔を真っ直ぐに見た。人混みの中、迷わないように前を見ながら導いてくれる。その横顔は、何だか少し凛々しい。
アルバが孤児であることや、召喚獣と暮らしていた事実。何も知らずに彼を否定していたことに、は自分の言動を恥じていた。そして同時に、故郷での師の言葉を思い出す。
「……自分の目と耳で、確かめて……」
「? なにか言った?」
「ごめんね」
それはとても小さな声だった。けれど、後者の言葉はしっかりとアルバの耳に届いた。
「お、そこのカップルさん。それとも兄妹かな? どうだい、輪投げやっていかないかい? 一回五十バームだよ!」
「え、お、おいら?」
歩いていると、不意にそう声をかけられて足を止める。店番の男が丈夫そうな木で作られた輪を差し出してくるので、アルバはを見た。どうする? 声を出さずに視線でそう問いかければ、少し考えるようにして視線を外したが、小さくあっと声を上げた。
「……」
「これが気になるかい? そこらの店じゃ買えない、非売品だよ」
男が指して、が見つめるのは、小さな指輪だった。アルバには、それが何なのかわからない。ただの安物の指輪にしか見えなかったが、の瞳にはそうは映ってはいない。何故だか直感的にそう感じたアルバは、なけなしの小遣いから五十バームを取り出した。
「……これ、一回分」
「お、兄ちゃんやるかい? 毎度!」
チャンスは三回。指輪に狙いを定めるアルバの真剣な横顔を、は戸惑いの色を浮かべながらもしっかりと見ていた。そして彼は、手にした木輪を的に向けて放ったのだが、どれも微妙に外れた場所に落ちていた。結局、彼は三百バーム使った。
「うーん、難しかったな」
「……あ、ありがとう」
何度も失敗しながら次第にコツを掴んできたアルバは、最後には見事、指輪をへと手渡すことができたのだ。は海沿いを歩きながら、アルバから貰った指輪を指にはめ、嬉しそうに見つめていた。結局のところ、それが何なのかわからないまま、アルバは自分から聞こうとはしなかった。やがて、沿岸の向こうから見知った人影が近づいてくるのを見て、は嬉しそうに声を上げる。
「トリスさんっ! ミニスちゃん!」
「っ!」
可愛らしく着飾った二人の召喚師は、小さな獣人と、彼女と一緒に歩いている少年を視界に収めると、小走りで駆け寄ってきた。ミニスと呼ばれた、よりも少しだけ年上の少女は、彼女の指に光る指輪の存在を認めると、興味ありげに呟く。
「これ、ここに嵌ってる石。メイトルパのサモナイト石よね。私のシルヴァーナのペンダントと同じだわ」
「……うん。なんだかとても懐かしい匂い」
本当だね、そう頷いたトリスは、それ以上にが再び外に出られたことに喜びを隠せずにいた。
照れ臭そうに俯いてから、少しだけ顔を上げて、ははにかみながら事の経緯を口にする。
「アルバくんが、輪投げで、とってくれたの」
「へぇ。やるじゃないアルバ」
「ミニス、からかわないでくれよ……」
にやにやと意地悪い笑みを浮かべながら小突いてくる少女に、アルバは少し身を引きながら苦笑で答える。
そのとき、彼はトリスやミニスと一緒になって屈託なく笑うという少女に目を奪われた。
恐らくはこれが、彼女の本来の姿なのだろう。
目が合うと直ぐにはアルバから視線を反らしてしまったが、その表情は嫌悪や不安といったものとは明らかに違っていて。
「でも良かったね、」
「うん。大事に、するから」
「あ、うん……そうしてくれると、おいらも嬉しいよ」
細い人差し指に飾られた小さなリングを見つめながら嬉しそうに微笑むに、アルバはホッと胸を撫で下ろした。もう大丈夫だと、確実に縮まった距離を感じながら。