「あ、!」
最初にその姿を見つけて駆け寄ったのは、ゴンだった。
ざわつく受験生たちの中心で何やら話し声が聞こえてくるが、その声に聞き覚えはない。は最後の木の実にかぶりつきながら尋ねる。
「一体、何が起きたの?」
「あのね、実は――」
拙い言葉でことの顛末を話してくれたゴン。合間にクラピカの正確な補足を加え、何とか理解する。
ハンゾーとか言うお喋りな受験生がスシのことを知っていたが、メンチにあっさり作り直しを言い渡され、頭に血が上ってつい大声で作り方を叫んでしまった。その結果、味のみで審査をしなくてはならなくなり、厳しい判定が続き、次第にメンチの腹は満たされ――合格者は、ゼロ。意見は絶対に変えないと言う強情なメンチに、これまでかと絶望した受験生達。しかし、そこに救世主が現れたと言うのだ。
「それが……あの人?」
「ああ。ハンター協会のネテロ会長だ」
一見にして、ただの髭の生えた老人だった。しかし、彼と話をして大分落ち着きを取り戻したのか、冷静になりつつあるメンチ試験管は溜息をひとつ吐くと「試験管、失格ですね」と呟いた。
「私は試験管を降りるので、どうぞ試験を続けてください」
「うーむ、そうじゃのう」
試験官を降りるというメンチに、ネテロ会長はひとつの提案をする。再試験を行い、その試験にはメンチ本人も実演という形で参加してもらおうと。その言葉を聞いてメンチが出題したメニューは、
「ゆでたまご」
だった。
会場はこの場所とは異なるらしく、メンチの要望により会長の乗ってきた飛行船で運んでもらうことになり、受験生は続々と船に乗り込んだ。見れば、いつの間にやらヒソカも戻ってきていた。
「試験は諦めたんじゃなかったのかよ?」
「そのつもりだったんだけど、ちょうど戻ってきたら再試験するって言うから」
ふうん、とキルアはそれ以上は興味が無いようで何も言わなかった。不思議そうにその背中を見つめていると、振り返らないままのキルアからゴンがうるさかったんだよ、と小さく拗ねた声が聞こえた。
「ゴンは、皆でハンターになろうなんて言ってたぜ」
「全く、我々も皆、ハンターを目指す敵同士でしかないのにな」
レオリオもクラピカも呆れたようにそんなことを言っていたが、その顔はどこか安堵していて、嬉しそうでもあった。
「……ハンターになりたいわけじゃ、ないんだけどね」
の言葉は、彼らの耳に届くことはなかったのだけれど。
「うわー、高いね!」
飛行船を降りて山頂に立つと、そこは二つに割れて、崖になっていた。マフタツ山、というらしい。底が見えずに恐怖する受験生の前で靴を脱ぎ捨てたメンチは、底は深い川よ、と言うと真っ直ぐにその崖に飛び込んだ。
ざわめく受験生に、ネテロ会長が解説する。この辺りに生息するクモワシは、谷底に糸状の巣を張り巡らせて卵を外敵から守る習性があるのだと。その丈夫な糸に捕まり、卵をひとつ取って戻ってくる。
「……っと、この卵でゆで卵を作るのよ」
谷底から見事戻ってきたメンチが顔を出し、取ってきた卵を見せながら言う。しかし、後ずさる受験生達の顔色は優れない。こんなの、まともな神経で飛び降りられるわけがない。誰かがそう言ったのが聞こえた。けれど、一部の受験生は平然とした顔で言うのだった。
「あー、良かった」
「こーゆーの、待ってたんだよね!」
二人の少年が言い、レオリオとクラピカも同意していた。やはり、彼らは普通ではない。
「大丈夫かい?」
「何が」
耳元でヒソカに囁かれて、苛立ちながら問い返す。先ほど話は充分した。もうこれ以上構わないで欲しいのに、と思いながらもしっかりとヒソカに反応を返してしまう律儀さに、ヒソカは「君は本当に可愛いね」とまた笑う。いい加減にしてほしいと心底思うのに。
「もし飛び降りるのが怖いなら、僕が抱えてあげようか」
「馬鹿にしないで」
それは本当に、心外だった。
「翼を失っても、私は」
私達は、空を統べる――魔女なのだ。
「……ッ!」
意を決して飛び降りる。昼食を食べたばかりなのと浮遊感で若干気持ちが悪くなったが、自分はそこまで弱いつもりではない。
――お前それで戦えんの?
――貴女がハンターになれるとは思えない。
――お前をコレクションとして愛しているよ。
「そんなの、関係ない……」
どれだけ自分の存在を否定されても、自分はここにいるのだ。翼を失って、身体の自由を奪われても、心まで縛られるわけにはいかなかった。だからこそ、与えられたこの好機を逃すわけにはいかない。
「……?」
クモワシの巣の上に綱渡りをするかのように静かに降りたに、不恰好にようやく糸に掴まっていた受験生達は一瞬何が起きたか解らずに声を失った。
自分の分の卵を手に入れて少し余裕があったクラピカがその名前を呼んだが、彼女には届かない。自らの能力――ガムとゴムの性質を持つ――で悠々と卵を手に入れたヒソカも、宙に浮いたまま女の行動を舐めるように見ていた。
「ッ、クモワシだ――!!」
どこからかそんな悲鳴が聞こえる。見れば、巣の危険を察知したのか、複数の大人のクモワシがこちらを目掛けて飛んでくる。
端に居た受験生の幾人かは、クモワシに邪魔をされて真下の川へと落ちていった。慌て始めるレオリオや他の受験生達だったが、堂々と糸の上に立っているは全く動じない。早く逃げなければ、最も危険なのは間違いなく彼女だった。
「馬鹿、早く逃げ――」
痺れを切らしたキルアが咄嗟にそう叫んだが、言い終わらない内に彼女の次の行動に大きな目を更に大きく見開いた。
それは、聞いたことのない国の言葉だった。
「……!?」
旋律に乗せて紡がれる異国の言葉は、意味など到底解らないものの、優しい声に誰もが聞き入ってしまう。
これだ、とヒソカは思った。クロロが欲しくて欲しくて、しかし手に入れることが出来なかった、彼女の心とも言い換えることのできる存在価値。歌う民族セルミア。確かにその姿は魔女と呼ぶに相応しい。
変化はだけではなく、クモワシにも現れる。猛スピードでこちらへ向ってきていたクモワシたちの動きが徐々に下降し、やがて止まった。
「な、何がどうなってんだ……?」
困惑する受験生に、は小さく呟く。
「……早く行きなよ」
とにかく今のうちに、と思い出したように慌てて崖を登る他の受験生達。彼らが無事に崖を登っていくのを見届けて、は近くまで来ていたクモワシに”お願い”をする。
「……ごめんね。私、まだ、本当はもう少しだけ生きたいの。だから、貴方の宝物をひとつくれる?」
それは願いと言う名の命令で。彼女の声に逆らうことの出来ない動物は、その命を忠実に実行する。
クモワシから卵をひとつ受け取ったは、ついでにそのクモワシの足に掴まることで、山頂へと戻った。それにはメンチも会長も、感嘆と驚きの声を上げた。
その呪いがどれだけ残酷か、よく理解していながら。
「! お前、すげーんだな!」
卵を手に入れたレオリオが嬉しそうにやって来たが、はそれには答えなかった。
人前で歌ったのは、いつぶりだろう。とても寂しくなった夜なんかに、何度か蜘蛛のアジトで口ずさむことはあったけれど。
ヌメーレ湿原を抜けたときもそうだった。自分の力が及ばないから、野生動物達の力を借りる。いや、借りると言えば聞こえはいいが、要は無理やり服従させているだけだ。こんなのは、自分の力などではない。
「と、とにかく、二次試験――42名が通過!」
折角の幻の卵だというのに、乾ききった舌と喉には、味など伝わってこなかった。