ずっと遠い昔のことのように思うのに、それはたった数年前の出来事のようだ。
ある日黒い連中が村へやってきて、一人の娘を浚った。後に彼は言った。偶々そこに居たのがお前だっただけのことだと。
そんな風に私から平穏を奪った彼らを、どうして私は赦してしまったんだろう。いいや、決して赦してなどいない。ただ、絶望してしまったのだ。
今も昔も憎しみすら抱く暇などなくて、ただ彼らの欲望のままに愛でられるだけの存在へと成り下がってしまった、自分自身に。
「きれいな声だな」
男はそう言って、私の頬を撫でる。もう何も感じないその言動を、彼は執拗に思うほど繰り返す。美しいだとか綺麗だなんて、そんな言葉は嬉しくもない。何故なら、それは我々一族にとっては当たり前のことだからだ。
「いつまで、こうしていればいいの」
「……そうだな……俺の気が済むまでか、或いは、お前の鼓動が止むまで」
彼は私を解放する気はない。何が、"或いは"だ。貴方の気が済んで、用済みになったら私はそこで殺されるしかないのに。弱った小鳥をじわじわと絞め殺すみたいに。
「私は貴方が嫌いよ」
「……知っている。だが俺は、お前をコレクションとして愛しているよ」
「……それならいっそ殺して、どうぞ私の死体を凍らせて寝台に飾ってくださいな」
お前は面白いことを言う、と男は低く笑う。
「それでは意味がないだろう? ……お前は生きているからこそ、価値がある」
私は――我がセルミア族は、先祖が幻獣セイレーンと謳われる一族で、その歌声は何者も魅了すると言われている。私が今よりも少し幼い頃、突然村に現れたこの男と幾人かの仲間に連れ去られ、今に至る。大嫌いだと心の底から思っているのに、逃げられないのはどうしてか。決まっている。私はこの男が、恐ろしくてたまらないのだ。
「私に、貴方を殺せるだけの力があればと何度思ったことか」
「面白いな……いつでも受けてたつぞ?」
「……夢の話よ」
どんなに力を使ったって、この男の前では無力だ。解っているからこそ、彼は私を野放しにする。枷もつけず、この仮宿の中でなら私は自由でいられる。でもそれは、本当の意味で自由ではなくて。
「……もしも私が歌えなくなったら、クロロ、貴方はどうするの?」
「安心しろ。その時は、望みどおり絞め殺して寝台に飾ってやるさ」
男――クロロは、ふっと唇に笑みを湛えてそう告げた。
「……楽しみにしているわ」
憎しみではなく、私は、この男に哀れみすら抱いている。だから、この呪縛から逃れられずにいたのだ。
「逃がしてあげようか」
「何故?」
「たまには慈善活動もしないとね」
「貴方の場合、単なる嫌がらせでしょう。クロロの悔しがる顔が見たいだけ」
「なんだ、バレてるんだ」
私が彼のコレクションのひとつとなってから、幾年月が経っただろう。ある夜、ひとり月を見ていた私に、背後から男が話しかけた。
仕事でクロロが留守にしている間、この仮宿には二人の団員がいる。
A級首の盗賊、幻影旅団。その頭であるのが私を浚ったクロロという男であり、彼と12人の団員で構成された組織で、蜘蛛の俗称で呼ばれることもある。この幻影旅団の中でも最もクロロが警戒しているのが、今私の目の前にいる道化師風の男である。名は、ヒソカと言う。
何故今、彼がここにいるのかわからない。普段なら絶対に警備など引き受けない男が、今回は自分から名乗り出たと言うからまた驚きだ。もうひとりの団員はシズクという女性団員で、普段から人と関わろうとしない性格のため、現在も奥の部屋でひとり読書に勤しんでいることだろう。彼女に警備がつとまるかは、わからない。
「でも、チャンスじゃないか。こんな機会、もう二度と来ないかも」
「そうね」
にやりと笑った男を、私は真っ直ぐに見た。ペイントされた道化の仮面。信用できないそいつの手を、どうして私は取ろうと思ったのだろう。今となっては不明な点の方が多いし、このまま外へ逃げれば、捕まったら殺されるかもしれないと解りきっていたことなのに。それでも私は、この場所から抜け出せるのなら何だって良かったのだ。
「本当に、外へ出られるの?」
ヒソカは、楽しそうな笑顔のまま頷いた。もちろん、と。
それから、ヒソカの念能力を使用して仮宿から抜け出した私達――いや私は、蜘蛛の敵となった。現時点で彼らから追われているという情報は入っていないものの、それはきっと泳がされているだけに過ぎない。私がどこで何をしているかなんてクロロはきっと全て把握していて、その上でほくそ笑んでいる。外の世界に触れた私が、最も嫌なタイミングで連れ戻すか、殺しに来るだろう。それが、蜘蛛だから。
ヒソカは私を麓の街へ置いてどこかへ去った。そういえば、もうすぐハンター試験があるよ、なんて意味深に笑いながら。彼は私を挑発しているのだろうか。そんな風に言われれば、行かないという選択肢は私にはなかった。パソコンの使えない私は酒場や情報屋でハンターについて調べ、試験に申し込んだ。海を渡るのも、然程苦にはならない。私の能力があれば、きっと何だって出来ると、そう思っていたかっただけかもしれないけれど。
「どうせ死ぬなら、あの人のいないところが良いわ」
ハンター試験は一度受かった人間が立ち入ることは出来ない。クロロは、試験中は私に手出しできないのだ。それほど嬉しいことはない。
あんな奴の思い通りに死んでなどやるものか。