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    「……?」
    「……目、覚めた?」

     窓から差し込む光が眩しくて身動ぎすると、頭上から落ち着いた声が聞こえる。ミカサ、と声に出して名前を呼んだつもりだったが、それは音になることはなかった。
     また、出なくなったの? パンとスープの乗ったお盆をベッドの上に置い、困惑気味にミカサが言った。自分がどうして部屋で、ベッドで寝ていたのかわからない。上半身を起こし、ベッドから降りようと布団から足を出せばそれはミカサに阻止された。

    「だめ、起きては……」
    「!」

     ミカサがを押し留めるよりも先に、は布団から降りるために床につこうとしていた自分の足を見て、絶句した。
     右足に包帯と添え木。感覚の無いそれに、当然だが困惑してしまう。
     一体自分の身に、何が?

    「私を守って、アニに……女型に、やられたと。アルミンが……」

     そうだ。自分は、ミカサを守りたいと必死で。アニに立ち向かったのだが、やはりミカサのように上手く立ち回ることは出来なかった。その結果負傷して気を失って、最後まで戦場に立っていることは叶わなかった。

    「! 、……」
    「え?」

     ぱくぱくと動く唇に、ミカサが眉を潜める。暫くして、何となくの言いたいことが解ってミカサは居住いを正して脇の椅子に腰掛けた。

    「エレンが間に合って、守ってくれたの。女型は、捕らえたけど……何と、言えばいいのか……私には」

     わからない、と頭を振ったミカサ。彼女の言語力ではアニが結晶化するというあの光景を説明しきることが難しく、しかしはそこまで聞ければ十分だった。戦いは、今のところ終結したのか。ミカサの様子では、エレンもアルミンも、それからジャンも無事なのだろう。良かった、と漏れるため息。ミカサはにもう少し休んでいるように言って、立ち上がる。

    「ごめん……エレンも、別室で休んでいるの。私、」

     申し訳なさそうなミカサに、は頷く。ミカサがエレンのことを誰よりも心配しているのは解っているから。少しでも傍に居たいのだろう。

    「ごめんね」

     もう一度そう言って、ミカサは部屋を出て行った。

    『あー……』

     ひとりになった部屋で、発声してみようとしたけれど、やはり声は出なかった。

     医者に見てもらったら、女型との戦いのショックからだろうということだ。発声障害は、いつどのようにして起こるかもわからない。
     怪我の回復と同時に、カウンセリングと発声訓練を行うようになった。心が安定しないと身体的機能訓練――リハビリを行うのが難しいと言われ、は一先ず戦線から離脱となった。


     こわかった ミカサが 死んでしまうかもしれないって 思ったら
     体が勝手に 動いて でも 巨人の正体がアニで アニが 敵になって
     わたしを ころそうとするから 目の前が 真っ暗になって


     医師を手配したハンジと、が心配で付き添いを申し出たアルミンとミカサ――がこれを承諾した――が立ち会う中、がノートに綴った言葉がそれだった。
     彼女のペンを持つ手が震えて、ペン先が黒い斑点をいくつもノートにつけていく。

    「……っ」

     ぽたり、ついには零れた雫が紙切れに染みをつくり、インクが滲んだ。医師は話を聞いて、の抱く不安を取り除こうと言葉を選ぶが、それは兵士として巨人と見えた経験の無い者には理解し得ないものなのだ。の不安が完全に取り除けるはずがなく、記憶を掘り返せば返すほど呼吸が乱れる為、一旦治療は中止となった。日を改めてと言った医者とそれを送るためにハンジが退室し、部屋にはの他にアルミンとミカサが残った。

    「……」
    「ミカサ」

     妹に声をかけぼんやりと座っている彼女へと近づこうとするミカサだったが、アルミンの声がそれを止めた。

    「ごめん。少し、二人で話をさせてくれないかな」

     アルミンがこんな風に意見を押し通すことは珍しい。しかしその表情に戸惑いはなく、ミカサはどこか安堵していた。何と声をかければ良いか戸惑っている自分ではなく、アルミンならば、を任せられるかもしれないと思ったのだ。

    「……お願い、アルミン」
    「うん」

     エレンはミカサにとって命よりも大切な存在だ。自分が死んでも、残されるよりはずっといい。自分が死ねばエレンを守れないからまだ死ぬわけにはいかないが、それでも窮地に陥ったとき。ミカサはまず間違いなく、自分の命を捨てるだろう。だから、思ってなどいなかったのだ。ミカサ自身が死なないように、が身体を張るなどということを。
     ミカサが出て行って、二人きりになる。子供の頃はよく二人で遊ぶこともあった。訓練兵になってからは、二人で話すのは少し緊張した。そして今彼女にあるのは、罪悪感。

    「」
    「……」

     アルミンが、へと近づく。膝上で開かれたままのノートと、その上に置かれたペンを握る手を見て、彼は彼女から筆記用具を優しく取り上げた。無論困惑はあったが、彼はにっこりと微笑んで、先ほどまで医師が座っていた椅子に腰を下ろした。
     アルミンは、思っていた。彼女の気持ちを理解できるのは、恐らく双子の姉であるミカサではなく自分の方だと。いくらお互いの意思疎通が出来ていたとしても、身体的能力が高いミカサは、弱者であるのことは理解できない。だって、ミカサのことはよくわからないだろう。幼少期に起きたあの事件を経て、二人はそう変わってしまったのだ。

    「何も、話そうとしなくていいから。僕の話を聞いて欲しいんだ」

     何も持たないの手を、アルミンがそっと握る。まだ少し震えていたそれは、アルミンの手の中で少しずつ落ちついていく。

    「僕は正直ホッとしてるんだ。には悪いかもしれないけど、もう君の足が治らなくてもいいかも知れない、なんて思ってる」
    「!」

     そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。アルミンは真摯な眼差しで、の足がもう動かなくても良いなどと残酷なことを口にする。当然驚きはしたが、それは非難ではなく、ただ純粋な疑問だけが浮かぶ。何故? 困惑した視線で問えば、アルミンは優しい顔のまま、彼女からの返事がないことなどわかりきっているので、続けた。

    「女型に襲われたとき、僕だって怖かった。当然だよね、僕は百四期の中でも特にひ弱で、よりも体力が無くて、一番足を引っ張っていた。実践でもエレンを一度見殺しにしたんだ。そんな僕が調査兵団に入ったって、教官の言うとおり巨人の餌にしかならないだろう。それでも僕は調査兵団で、巨人の謎を解き明かしたい。だけどその為には、僕はきっと何だって犠牲にする。団長が多くの兵の命を切り捨てたように。化け物になる覚悟は、もう出来ているから」

     アルミンの目も声も真剣そのもので、は涙が乾いて赤くなった目でアルミンを見た。全てを捨て去る覚悟がある。そう言ったアルミンは、が知っている弱い少年ではなかった。

    「エレンもミカサも、調査兵団としては必要な戦力になる。エレンは巨人を倒すという意志が、ミカサにはエレンを守るという目的がある。だけどは違う。僕は、知っていたんだ。君に巨人に対する憎悪も興味もないということ。ただ、エレンやミカサと離れたくないんだろ? だから、君は調査兵団に入るしかなかったんだ。もっと早く、言ってあげれば良かったんだけど……」

     アルミンは、幼子に言い聞かせるように優しい声を保ったまま、の気持ちを代弁するかのようにたくさん喋った。そして一呼吸置いて、最後に

    「大丈夫だよ、ひとりを置いてったりなんか絶対にしないから。……だからもう、戦わなくていいんだ」

     彼から発されたその言葉に、は耐え切れず、アルミンの胸に飛び込んだ。
     もう戦わなくていい。絶対に一人にはしないから。巨人の恐怖ではなく、大切な人を失う悲しみから解放されたくて。自分は、誰かにきっとそう言ってほしかったのだ。

    「……、……っ!」

     声は出なかったが、子供のように泣きじゃくるに、アルミンはようやく人心地ついたのだった。

    to be continued...





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