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     もう大丈夫、とは言った。
     アルミンと話をした――とは言っても彼の一方的な話を聞いていただけだったが――あの翌日から、は発声訓練をした。ゆっくりと、落ち着いた環境でそれらは行われたが、すぐに声が戻ることはなく彼女自身もパニック状態に陥ることも少なくなかったので、何度も何度も中断しながら。それでも諦めずに訓練を続けたことで、は少しずつ言葉を取り戻したのである。
     彼女の不安を見事に取り除いたアルミンは、エレンやミカサから、果てはジャンにまで一体どんな魔法を使ったのかと問われたが、至って普通のことしかしていないよ、と答えた。自分は本当のことしか彼女に伝えていないのだ。本当はもうひとつ、伝えたいことはあった。しかし恐らくそれを口にしてしまったら、訓練どころではなくなってしまうので口にするのは止めた。それが本当にを思ってか、自分の勇気の無さを彼女のせいにして逃げているのかは定かではないが。

    「……?」
    「何? アルミン」

     そう答えた彼女の顔は、何だか明るくない。ようやく声が戻って、普通に話せるようになったというのに、思いに耽るはアルミンが話しかけても上の空ということが多かった。

    「おい、飯持ってきてやったぞ」
    「ジャン」

     ジャンが入ってきて、礼を言おうとアルミンが口を開いたとき、目の端で、彼女の肩が小さく震えたのが見えた。ジャンに反応した? どこか怯えているようなの姿に、アルミンは声をかけようか迷った。ジャンもまた然りで、どうしてか解らないが自分に怯えられているのだと悟った彼は、「じゃ、じゃあ、またな」と言って部屋を出て行こうとした。

    「……待って、ジャン」

     小さな、だが確かな声ではジャンを呼び止めた。ミカサよりも少し弱々しいが同じ声に名前を呼ばれてジャンは少しだけ頬を染め、は今度はアルミンを振り返り言った。

    「アルミン、ごめん……すこしだけ、ジャンとふたりで、話がしたい」

     二人で、ということには少し引っかかりを覚える。一体どんな? 自分には聞かせられないことなのか、そう思うと少しだけ疎外感を覚えた。一番近くにいたのに、隠し事をされているようで。ああそうか、これは単なる嫉妬だと、部屋を出たアルミンは静かに嘆息した。



    「どうしたんだよ、一体」

     二人きりと言うのは、別に初めてではない。彼女がまだ声が出なかったとき。先日壁外から戻ってきたときにも一緒にいた。しかしそれはジャンの方に用事があっただけで、がアルミンやミカサ以外と二人になりたいと言うのは、恐らく初めてのことだった。
     筆談ではなく、しっかりと向かい合った状態で、は口を開いた。

    「…………マルコの、ことなの」
    「!?」

     それは彼女にとって、一体どれほど覚悟の要ることだっただろうか。ベッドの上で握られた拳が、震えた。
     は、あの日起こったことを自分の覚えている限り詳細に話した。自分を庇ってマルコが巨人の前に立ったこと。想いを告げられたこと、そして彼がジャンに伝えたかったこと。

    「何も返せなかった……たくさん助けてもらったのに、わたし」
    「」

     はジャンに、責められるのではないかと思っていた。しかし、それでも良かった。いっそ罵って、くれたら。そう思ったが、最後まで話しを聞いたジャンは、ふーっと長い溜息の後で呆れたように言った。

    「俺はな、知ってたんだ。マルコが、お前のこと好きだって」
    「え?」
    「何だかんだ、三年の間では他の連中より一緒にいることが多かったからな。そういう、話をしたこともある」

     そういえば、訓練兵の時に女子部屋でそんな話題で盛り上がったりもしたような気がする。今となっては懐かしい、遠い昔のような出来事をぼんやりと思い出す。

    「だから俺は、お前を恨んじゃいねぇよ。それはマルコが決めたあいつの道だし、あいつにとっちゃ……悔いは無いだろ」

     好きな人を守るために、最後まで戦ったのだ。そんなマルコを、何故と責められるわけがなかった。きっと、もしミカサが窮地に陥ったら自分のことなど省みずに助けに行くだろうとジャンは思った。

    「マルコに、悪いと思ってんのか?」
    「! な、に?」
    「アルミンに、伝えてねーんだろ」

     ジャンは頭が良い。対人格闘術ではエレンの方が上だろうが、座学ではジャンの方が成績が良かったはずだ。見透かされているような視線に、は居た堪れず目を反らした。
     声が戻ったら、はアルミンに自分の気持ちを伝えようと思っていた。アルミン本人にも、以前そう言ったのだ。ちゃんと自分の気持ちを伝えるから、待っていて欲しいと。死なないで、と。だけどマルコは、に気持ちを伝え、彼女を守って死んだ。そのことが脳裏を過ぎって、苦しかった。

    「マルコはそんな心の狭いヤツじゃねぇ」
    「……うん」

     誰かに聞いてほしかっただけなのかも知れない。マルコの最期を、己の罪を懺悔したかったのだ。他の誰でもない、彼の親友である、ジャンに。

    「ありがとう、ジャン」
    「……ミカサと同じ顔で、あまり見んな」

     微笑んで礼を言えば、ジャンは赤い顔でそっぽを向いた。そうだった、彼もまた、報われない恋をしているのだった。

    「じゃ、俺は行くわ」

     頑張れよ。そう言い残して、ジャンは部屋を出て行く。頑張るって、何を? そう思い首を傾げただったが、やや後、戻ってきたアルミンを見てその意味を知る。

    「? ジャンから、話があるって聞いたんだけど……」
    「!!」

     心の準備が出来ていないまま、アルミンと二人きり。恐らくジャンはまだ近くにいるのだろう。誰も来ないように、気を遣ってくれているのかもしれない。
     心のどこかでマルコの死が引っかかって、躊躇っていた言葉。もう、その必要は無いとジャンは言ってくれた。自分は足を負傷して戦線離脱。恐らくまたすぐにミカサやエレンらとともにアルミンは戦場へと赴くのだろう。もしも、それきり会えなくなったら? 後悔だけは、もう二度としたくなかった。

    「……あの、ね。アルミン」

     伝えたいことがある。そう言ったの目は、いつになく真剣で。

    「アルミンが、外の世界のことを教えてくれて、私は嬉しかったの。喋れない私に、アルミンはずっと話しかけてくれて、ミカサやエレンのかわりに、傍にいてくれて……ありがとう」
    「……」
    「私、アルミンが好き。ずっと、ずっと前から――ちゃんと自分の声で、伝えたかった」

     ようやくそれを言葉にした瞬間に、の瞳からは涙が溢れた。ただミカサの後をくっついて歩いていた幼い女の子は、しっかりと自分の意思を持って、ここまで進んできたのだ。

    「……うん、僕もだよ。君が居てくれたから、弱い僕も皆と一緒に戦うことが出来たんだ」

     そして、これからもとアルミンは言った。が戦えなくなっても、必ず自分達が切り拓いて見せると。この先の、壁の向こうへ。ともに歩めることを信じて。



     優しい時間が少し、流れる。恐らく後で作戦会議だなんだと他の兵士が呼びに来るのだろうが、それまでは一緒に居てくれるとアルミンは言った。
     窓から差し込む光が眩しくてが目を細めると、アルミンはブラインドを下ろしながら窓の外に広がる空を見た。

    「明日も、晴れるかな?」
    「……晴れると、いいね」

     それはただの天気の話だった。しかしは、壁で阻まれて半分も見えない空を思うと、晴れやかな気持ちにはなれないのである。

     明日こそは、このどんよりと薄暗い闇から抜け出すことが出来るだろうか。
     壁の外の世界へと羽ばたける、足がかりを掴むことが出来るのだろうか。
     私にはまだ、わからない。けれど、それでも。

    「アルミン」
    「うん?」

     自分を犠牲にしてばかりの貴方の世界が、どうか晴れますように。

    「大好き」

    End





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