「まだだ、もっと壁際に引きつけろ!!」
「……ッ」
不気味な笑顔がどんどん近づいてくる。今すぐにでもレバーを引いて、一目散に逃げ出してしまいたい。しかし、それでは全ての作戦が無駄になることを誰もが理解していたからこそ、泣きたくなる衝動を必死に堪え、泣き言を言う者はいなかった。
「今だ、離脱!!」
上官の声を合図に、一斉にその場から飛び立つ。そんなことを繰り返しながら、エレンとミカサがいるであろう壁の方向を見た。たくさんの家々に阻まれて姿は見えない。それでも、無事であることを願いたいは、ただ繋がっているであろう空を見上げた。その瞬間、作戦開始の、緑の煙弾が遠く上がった。
多くの巨人はもう壁の上にいる大勢の兵士を求めて壁際に集まっている。あとはエレンがしっかり大岩で穴を塞ぐことができれば、あとは残った巨人を一掃するだけでいい。そのはずだったのだが、一箇所に集まった兵士達の目に映ったのは、二度目の煙弾――作戦失敗、深刻な問題が発生したことを知らせる、赤の煙弾であった。
「まさか……失敗、したのか?」
を心配して近くまで来ていたアルミンが、マルコの呟きを聞いて息を呑んだ。どうして、と。そう呟くと同時に、彼は多めに配給されたガスボンベを置いて走り去った。
「おい、アルミン!? どこに行くんだ!!」
「!!」
「!?」
どこに行くって、そんなの決まっている。エレンのところだ。
アルミンの後を追いかけて、は走った。エレンに何かあったのなら、ミカサが黙っていないだろう。それでも作戦が行われない何かが起きたのなら、それはミカサにもどうにもならない事態であるということだ。
もしかしたら、二人とも――
最悪な事態を想像して、さあっと顔が青褪める。そんなを気遣ってくれる人は今は誰もいない。
アルミンの背中を追いかける最中、一度強い風が吹いて目を瞬いた。
(……あれ?)
しかし、もう一度彼女が目を向けたときには、アルミンの姿はどこにもなかった。見失ったのだ。しかし、エレンは大岩のある場所にいるはずだ。その場所に行けば、必然的にミカサやアルミンがいるはずだと足を向けるが、不運はを家族から遠ざけるように襲い掛かる。
「……ッ!!」
群れから外れた、奇行種であろうか。それが一体、の方へと飛び込んできた。間一髪で彼女はそれを回避し、足を向けていた方向を逆転させた。
(なん、で……こんな、ときにっ!!)
巨人を引き連れたまま、エレンの元へ行くわけにはいかないのだ。
動きの読めない奇行種は討伐するのが一番良いのだが、それはにはできなかった。六メートル級の奇行種の、大口を開けてカエルのように飛び跳ねる姿に、刃を構えることすらできない。
(早く、早く戻らなくては……わたしじゃ、この巨人をたおせない!)
即座に自分の力量を把握したは、仲間がいる場所へと必死に向かう。向こうにはまだ、マルコもジャンもコニーも、サシャにユミル、クリスタもいる。同期生の、仲間がいるのだ。
エレンやミカサだけではない。自分を助けてくれる仲間は、いるから。
「……、はっ」
助けて、誰か。
そう叫びたい。声の限りに助けを求めたいのに、肝心の声が出ないなんて。走りすぎて鳩尾が吊りそうなくらい呼吸が苦しいのに、唇から漏れるのはただの息遣いだけ。
巨人の手が徐々に迫ってくる最中。もうダメかも知れない、と諦めかけた瞬間、
「こっちだ、!!」
「!」
無我夢中で走り続け、元居た場所からも大分離れていたに叫んだのは、先ほどまで一緒に行動していたマルコだった。隣にはジャンもいる。
「馬鹿野郎!! 早く、こっちへ飛べ!!」
ジャンに怒鳴られて、走っていた屋根を蹴ると同時にガスを勢いよく吹かした。当然を追っていた奇行種も同時に跳ね上がったが、その行動を見越してか、に狙いを定めていた奇行種のうなじをマルコとジャンが二人がかりで削ぎ落とした。
「……」
蒸発して消えていった巨人の残骸を見下ろしながら黙ったを、再びジャンが「馬鹿野郎」とトーンを落として言った。「死んだかと思った」。続けて口にしたその言葉に、じわりと涙が浮かぶ。
「アルミンを、追っていたんだろ? アルミンは?」
マルコの言葉に、ふるふると首を振った。結局、彼を追うことは許されなかった。
悔しさと遣る瀬無さに俯いて唇を噛みしめる。幼い少女のように小さく見える彼女のことを、ジャンとマルコは哀れに思った。
「今は、自分の使命を全うしよう。きっとエレンもそう言うと思うよ」
「……」
今度は頷いて肯定する。そうだ、一時の感情で命を落とすなんて馬鹿げている。エレンのことはミカサとアルミンに任せておけばいいのだ。自分が出る幕ではない。
だが、しかし。それでも本当は、
(一緒に……行きたかった……)
そういう思いは、拭えない。
「……まあ、早く戻ろうぜ。こんなとこにいたんじゃ、狙ってくださいって言ってるようなもんだからな」
「そうだね。さあ、」
マルコが差し出した手を、は躊躇いがちにとった。彼が持つその温かさを、は知っていた。追いかけたかった大好きな人が持つ雰囲気に、とてもよく似ていたのだ。
(どうか無事でね……アルミン)
傍に居ることが許されなかった以上、彼らの無事を祈るしかには出来ない。
マルコに連れられて囮部隊へと戻ったは、ピクシス司令の命令で、この作戦が続行されることを知った。
他の兵士達に三人が合流すると、それを見つけたコニーが急ぎ足でやって来た。
「エレンのやつ、何があったんだ!?」
「アルミンが一人で向かってる。多分、大丈夫だろう」
「多分って……」
大丈夫だ。エレンならやれる。隣のを安心させるためにもそう言い切ったマルコに、コニーは疲弊し切った兵士達を横目に見ながら言った。
「巨人を街の隅に集めるなんて、無駄としか思えねぇよ」
「巨人相手の戦闘は、必ず消耗戦になる。今の段階で、損失は避けたいんだろう」
「……今の段階で亡くなる兵は、無駄死にってことか?」
ジャンの返答に対しても、コニーは納得していないようで、強張った顔のままだった。
いずれ総力戦になる時に備え、兵を温存しておくために犠牲を最小限にするのは当然であると主張したジャン。自他共に馬鹿と認めるコニーではあるが、彼はとてもたくさんのことを考えているように思う。
「そういうもんかねぇ……」
「そういうもんだ!!」
声を張り上げたジャンに、はびくりと肩を震わせた。
本当は、ジャンだって心から「仕方ない」なんて思っているわけではないだろう。ただ犠牲を厭わねば、この作戦を成功することはできないことを彼はよく理解していた。
叫んだジャンとは対照的に、コニーは冷静だった。
「……ま、損失にならないようにしようぜ。お互いに」
もう既に少なくはない人数の兵士達が命を落としていて、先ほど奇行種に襲われたことから、は「それは自分であったかもしれない」ということも、よくわかっていた。
コニーとジャンがそれぞれの配属先に戻っていくのを見送って、マルコはに声をかける。僕達も行こうか、と。それはいつも、エレンとミカサの後ろでアルミンがにかける言葉だった。
『……うん』
大切な存在が一人もいない戦場で、は涙を拭って顔を上げた。