一体どこでどんな風に、見ていたというのだろう。巨人に恐れおののいて右往左往としていた弱者たちが、奇行種のうなじから現れたエレンを化け物と呼んだ。同期生達のほとんどは、逃げることに必死でエレンの正体を知らされてはいないのだけれど、あの場に居たミカサ、アルミン、とライナー、ベルトルト、アニ、ジャンらは上官より守秘義務を課せられることとなった。しかし、ミカサを筆頭にアルミンとは決してエレンの側を離れようとはしなかったため、そのまま連行されることとなったのだ。意識の戻らないエレンをそのままにしておくなど出来るはずもない。その結果、わけがわからないまま、辺りはぐるりと包囲されてしまっている。息がある、ということはエレンを支えているアルミンが確認している。ミカサとは自分達を取り囲む駐屯兵の連中を睨みつけながら背中合わせに上官たちを睨みつける。
「アルミン。エレンはまだ、目を覚まさないの!?」
「うん……声をかけても反応がないんだ」
「……」
早く目を覚まして欲しい。いや、でも。エレンが目を覚ましたとき、駐屯兵は流弾を容赦なく撃ち込んでくるだろう。このまま眠っていてくれた方が、いいのかもしれないだなんて、思いたくもないけれど。
「……と、」
「!?」
眠っていたエレンの唇が弱く動いた。寝言のように、繰り返される「もっと、もっと……」。
「殺シテヤル……」
「……エレン?」
アルミンの声かけに、エレンはやや暫くの間のあと、ようやくハッと目を見開いた。身体を起こした彼が驚くのも無理はない。ぐるりと自分を取り囲む対巨人用の刃。困惑を浮かべるエレンに、駐屯兵を取り締まる隊長らしき男が声を張り上げた。お前は人間か否か。そんなの、本人だって解っていないだろうに。
「し、質問の意味がわかりません!!」
「シラを切る気か!? 化け物め!! もう一度やってみろ!! 貴様を粉々にしてやる!! 一瞬だ! 正体を現すヒマなど与えん!!」
エレンが巨人の体内から出てきたあの場面を、多くの者が見ていた。百四期生たちが喰われ絶望してゆく様を、安全な壁上から見ていたのだろう。どちらが心無い化け物か。悪態を吐いたところで、彼らには届かないのだけれど。
駐屯兵たちが、エレンの抹殺を口々に唱えだすと、それまで黙っていたミカサの身体が震えだした。その顔は、悲しみではなく怒りに満ちていた。彼女は一歩前に出ると、静かに口を開く。
「……私の特技は、肉を、そぎ落とすことです」
必要とあらば、いつでも披露します。剣を抜いたミカサに、エレンとアルミンが慌てた。話し合いすべきであると主張するアルミンだが、ミカサにとって最も大事なのはエレンの生である。そのエレンが今殺されようとしているのに、彼女が黙っているとは最初から思えなかった。小さく溜息を吐きつつ、も静かに刃を抜いた。エレンは、死なせない。
「もう一度問う! 貴様の正体は何だ!?」
「……っ」
冷静になろうとすればするほどに、頬を嫌な汗が伝う。エレンが膝の上で拳を硬く握る。今ここでエレンが言葉を発すれば、きっと発砲の合図は下される。しかし、どう答えを模索しようとも恐らく正解はないのだ。
「……自分は、人間です」
しんと静まり返る。その中で、男は低くわなないて声を絞り出す。
「……そうか、悪く思うな。仕方の無いことだ……誰も自分が悪魔じゃないことを証明できないのだから」
絶望の表情を浮かべるエレン。それは、彼の願望だったのかもしれない。しかし、だからといって巨人であることを認めてしまっては元も子もない。つまり、エレンがどちらと答えても、結局は同じだったのだ。
「エレン、アルミン!! 上に逃げる! も、早く!」
「よせ!」
「!?」
ミカサが刃を捨てて逃走を図る。が、がそれにいち早く気づいて無理だと首を振った。エレンを担いだミカサは、空を仰いで知る。壁の上にも、多くの兵が待機をしていたのだ。逃げ場はどこにも無い。
絶望に打ちひしがれる四人の頭上に、合図によって放たれた流弾が迫る。もうダメだ、と思ったその瞬間。は誰かに引き寄せられるのを感じた。それがエレンであると気づくまで、実際にはそれほどかかっていないのだろうが、時間の経過がとてもゆっくりに感じた。流れる流弾が、視線で追えるほどに、ゆっくりと。その目の端で、エレンが自身の左手親指の付け根を噛み千切るのも、しっかりと見ていた。
「…………っ!!!?」
流弾の衝撃からは免れた、ようだった。見ていた兵士の群れからどよめきが沸き起こる。自分たちを引き寄せたはずのエレンの姿はなく、かわりに巨人の骨組みがそこにはあった。
(……これは、なに?)
戸惑う頭を整理しようと口にするアルミンに、エレンが自分たちを守った事実がわかれば十分だと言い放つミカサ。困惑を口にできないにとって、二人のやり取りはかえってを冷静にさせた。パラパラと骨片が降ってくる度に、この巨人の壁が長く保たない事を告げていた。
「おい、大丈夫か!?」
「エレン!」
骨の巨人がもうすぐ崩れることを告げ、少し離れた場所へ移ろうと言ったエレンだったが、途中で足を止めて駐屯兵団の様子を伺う。今のところ動きは見られない。様子見か放心か、この際どちらでも良いことだった。ただ、少しでも時間が稼げるのなら、今のうちにどうにか策を練らねばならないのだ。
わからないことが多すぎる中、エレンはあることを思い出した、と言った。イェーガー家にある地下室。立ち入りを禁じられていたその場所に、答えがあるというのだ。過去に何があったのか、誰にも解りはしないが、ただ少しのヒントがあれば、それに縋りたいと思うのが人間だ。
「……だとしたら、何で隠した? その情報は、何千人もの調査兵団が命を落としても求め続けた、人類の希望じゃないのか? ……それを――」
「エレン! ……今は、他にすべきことがある」
父親の行動を疑問に思い怒りを露にするエレンに、ミカサの冷静な言葉がかけられる。崩れ行くヌケガラから離れた場所へと移動する。砂埃が立ち込める中、駐屯兵団は物音のひとつひとつに怯え、こちらを伺っている。
「俺は、ここを離れる」
「……どこへ、どうやって?」
どこでもいい。とにかくもう一度巨人になって、故郷シガンシナを目指す。そう言ったエレンの呼吸は荒く、鼻腔からは鮮血が流れる。
「エレン、鼻血が……」
「!」
「明らかに体に異常を来している……!」
それでも、体調不良など気にしている場合ではない、とエレンは自身の不調を省みずに呟いた。ここからは単独で動く、というエレンの言葉に最も反応を示したのはミカサではなくアルミンのほうで。着いていくと食い下がるミカサと決して首を縦には振らないエレン。その二人のやり取りに、唇を噛み締めて何かに耐えているアルミンに気づいたのは、三人の様子を客観的に見ていただけだった。
アルミンが何を考えているのか、何となくわかる。彼はいつも、守られてばかりの自分が嫌で仕方ないと思っていたから。それはとて同じで、この二人に着いていける自信などありはしない。しかし、これでいいなんて思うはずも無い。
大丈夫、と言ってあげたいけれど、かける言葉は持ち合わせていない。恐らくは自分が何を言っても無駄だろうし、彼の自信を引き出すのはきっとエレンの言葉だけだから。
「あとはアルミンの判断に任せる」
考えが二つある、と言ったエレンは、不意にアルミンに視線を移し、言った。
「え……?」
「俺だって今の話が現実性を欠いていることはわかってる」
確かに、巨人化という大きな力を得られれば、それを有効活用しない手はない。出来ることなら巨人化の力を兵団の元でじっくり検証して、役立てていくのが最も人類のためと言えるだろう。
もしも、アルミンがエレンの力が脅威ではないと駐屯兵団を説得できるなら、信じてそれに従うとエレンが言った。その目は本気で、彼の力に頼りたいと思っている。
「どうして、僕にそんな決断を託すの……?」
「お前って、やばい時ほど、どの行動が正解か当てることが出来るだろ?」
いつ? そんなことが。本気でわからないといった様子のアルミンに、ミカサとも顔を見合わせて頷く。解っていないのは、当の本人だけなのだ。
「いろいろあっただろ? 五年前なんか、お前がハンネスさんを呼んでくれなかったら俺もミカサも巨人に喰われて死んでた」
「! でもあれは、が……」
「私達を追おうとしたを、アルミンが止めてくれた。そうじゃなかったら、きっと誰も助からなかった」
五年前。エレンとミカサの元へ行きたいと暴れたを、彼にしては珍しく強引に、力ずくで止めたのだ。皆こうして無事でいられるのも、アルミンの行動が助けてくれたからだ。
そして今回も、きっと助かるって信じている。信じたいと、願っている。
「……っ、」
ゆっくりと、アルミンが立ち上がる。その表情は先ほどの弱弱しいものではなく、何かを決意したような強い眼差しだった。
「必ず説得してみせる。三人は、極力抵抗の意思が無いことを示してくれ」
それぞれ頷いたのを確認して、ひとり駐屯兵団のもとへ向かうアルミン。彼のあんなに真剣な顔は久々に見る。
「彼は人類の敵ではありません!!」
もしも大勢の者が巨人化したエレンを見たというなら、彼が巨人と戦う姿も目にしたはずだ。巨人達がエレンに群がっていく姿も。巨人はエレンを捕食対象をみなした。即ち、彼は巨人と同等ではなく我ら人類と同じだと。こんな短い間に、そんなに多くのことを考えられるのは、やっぱりアルミンは頭がいい。しかし、そんな彼の必死な説得を受けても、隊長のヴェールマンは耳を貸さなかった。理由がどうではなく、彼は思考自体を放棄しているのだ。一度アルミンが振り返り見たが、彼を信じる幼馴染たちは真っ直ぐに見つめた。だからこそ、アルミンは身体を張ることが出来たのだ。
(がんばって……私は何も、できないけど)
祈り続けるの傍ら、ミカサがそっと手を添える。大丈夫だからと、彼女の視線が云う。
兵団に向き直り、力強い敬礼をみせたアルミンに、息を呑む。
「私はとうに、人類復興のためなら心臓を捧げると誓った兵士!! その信念に従った末に命が果てるのなら本望!! 彼の持つ巨人の力と、残存する兵力が組み合わされば! この街の奪還も不可能ではありません!! 人類の栄光を願い!! これから死に行くせめてもの間に!! 彼の戦術価値を説きます!!!」
しん。静まり返る空気に、滝のように汗を流す隊長の荒い息遣いだけが聞こえた。ゆっくりと合図のための手が持ち上げられる。
「……ッ!!」
が膝の上で硬く握っていた拳を刃へと伸ばせば、ミカサも同様に剣を抜こうとし、エレンは巨人化のため手を口に、運んでいたところだった。このまま流弾の二発目が撃ち込まれれば、誰も躊躇わずに行動に移しただろう。しかし、すんでのところでそれを止めたのは、突如現れた救世主とも思われる人物だった。
「よさんか」
ピクシス指令。彼の登場が、全ての運命を変えてくれたといっても過言ではない。少なくとも、エレンはこの場で命を落とさずに済んだのだから。
安堵と恐怖で膝から崩れ落ちるアルミンのもとへ、三人は急いだ。