三年というのは案外早いもので、訓練兵になってから卒業までもうすぐそこだった。明日には解散式が行われて、その更に翌日には所属兵団を決めなければならない。しかしその中で、成績上位十名のみが憲兵団に入ることができるということは、訓練兵になるよりも前から有名な話であって、それを目指して多くの少年少女が入団してきていることも知っている。は特別成績が良いわけではなく、初めから選択肢はふたつにひとつだった。まだ発表されていないが、上位に入れそうなのはあらゆる科目に秀でたミカサと、努力と根性が人一倍のエレンだ。アルミンは座学トップなのだが体力がなく、先の卒業戦闘模擬試験の合格通達を受けた際には、誰よりもまず本人が驚愕していたほどだ。そんな四人ではあるが、彼らが思うのはいつだってひとつの答えだけだった。
エレンは巨人と戦うために力を得た。巨人を倒すために調査兵団を志望し続けた。幼い頃からずっとだ。
ミカサはエレンを慕い続けた。エレンの行く場所に自分の居場所は在るのだと信じた。彼女が願うのは、いつだってエレンの傍だった。
アルミンは外の世界に焦がれた。自分の不甲斐無さを誰より真摯に受け止めながらも、その夢だけは絶対に譲れないのだから。
は自分の意思がないことを一度は恥じた。しかし訓練兵として過ごす中で、彼女は自分の意思を再確認した。幼馴染の三人が大切であること。死に急ぎすぎるエレンが心配で、ミカサの傍を離れたくなくて、アルミンと同じ夢を、景色を見たいと願った。
四人が四人とも考え方は違えど、彼らの行き着く場所は結局は同じなのだ。
「いよいよ、明日だね……」
夕食時、アルミンが言った。この日は明日の緊張と今までの疲れからか、いつもより皆口数が少なく、食堂内はしんと静まり返っていた。パンをちぎって口に運んだエレンも、心なしかそわそわと落ち着かない様子だった。彼が上位に入る必要性はあまりないのだが、上位イコール有能、強いということに直結しているため、彼にとっては強さの証明となるのだろう。ミカサはいつもどおり淡々としていて、近くに座るサシャやコニーは相変わらずうるさかった。
翌日の夜、解散式の日。教官方が壇上に立ち並び、訓練兵たちはぴしりと敬礼を揃えて直立姿勢を保った。その中で、呼ばれる上位十名の優秀者たち。
首席 ミカサ・アッカーマン
次席 ライナー・ブラウン
三番 ベルトルト・フーバー
四番 アニ・レオンハート
五番 エレン・イェーガー
六番 ジャン・キルシュタイン
七番 マルコ・ボット
八番 コニー・スプリンガー
九番 サシャ・ブラウス
十番 クリスタ・レンズ
一人一人名前を読み上げられる度、羨望の眼差しがそこかしこから送られる。
「本日を以って、諸君らは訓練兵を卒業する!」
上位の十名が先頭に並び、他二百余名という数の訓練兵を前にして教官が配属兵団の説明を行なう。壁の強化に努め各町を守る駐屯兵団、犠牲を覚悟して壁外の巨人領域に挑む調査兵団、王の下で民を統制し秩序を守る憲兵団。翌日兵団を決定することを告げられて、その日は解散となった。その日の食堂は、いつもより食事が豪華(スープに野菜の種類が増えた程度だが)で三年間という地獄からようやく抜け出せると楽観視するものも決して少なくはなかったが、本当の地獄はこれからであることを知っている一部の少年少女たちは、周囲の楽観的な者たちと混じって騒ぐことは出来なかった。
「憲兵団に入らないって、本気なのかエレン!?」
「せっかく上位十名に入ったのに……」
発端はなんだっただろうか。一般兵のトーマス・ワグナーが、ジョッキを手に近づいてきてエレンにおめでとうと言った。憲兵団への入団権利を獲得した者たちを羨ましそうに眺めていたが、心根は明るく優しい青年である。上位の十名に一人一人祝いの言葉を送っているらしかったのだが、当然憲兵団に入るんだろうと何気ない会話に、エレンは全力で否定したのだった。
「俺が訓練していたのは、内地で暮らすためじゃない。巨人と戦うためなんだからな」
「……っ、勝てるわけない!!」
周囲の視線がエレンやトーマスの方へと注がれ、彼は一度気まずそうにトーンを落としつつ、それでも思っていることを言った。人類は巨人に勝てないと。
「お前だって知ってるよな。今まで何万人食われたか……人口の二割と失って答えは出たんだ」
人類は、巨人に勝てない。
トーマスの言葉に、それまで卒業を祝う明るい雰囲気が唐突に沈んだ。無言の中、エレンが拳を強く握る。
「それで、勝てないと思うから諦めるのか?」
「……それは」
「確かにここまで人類は敗北してきた。それは、巨人に対して無知だったからだ」
エレンは説く。巨人に対して物量戦は意味がない、負けはしたが戦いで得た情報は確実に次の希望につながる。エレンは、巨人を駆逐して狭い壁から出るのが夢だと、力強く語った。その後で、涙を浮かべた彼は食堂を出て行ってしまった。
「……待ってよ、エレン!!」
飛び出したエレンを、アルミンとミカサが追った。は食堂から出て行かず、周囲の様子をじっと眺めた。憲兵団に入れると喜んでいたコニーやサシャが、浮かない顔で黙り込んでいたのが目に入った。
「……おれ、は……憲兵に……」
「……」
彼らに、エレンのような強固たる意思は見られない。しかし、必死に考えて、仲間と共に戦おうとする思いを素直に賞賛した。でも、だからこそ、は言わずにはいられない。静まり返る食堂内で、トン、とがノートを卓上に立てた。
『己の意思を持たない人間は、結局食われるだけ』
全員が、息を呑んだ。エレンの言葉に共感しただけであって、それは己の意思ではないからだ。
「お、俺はっ! じ、自分で決めた。俺は調査兵団に――」
「……私も、巨人と戦います。領土を奪還するために……」
馬鹿で有名なコニーとサシャが、真っ先にそう宣言したのを聞いて、ジャンがぽつりと呟いた。「馬鹿が」。
二人の決意に触発され、ぽつりぽつりと駐屯兵、調査兵団の間で揺れる兵士たちがいた。その様子を見ながら、は全く別のことを考えていた。
(明日の夜には、所属兵団が決定する……もう、時間がない)
エレンもミカサもアルミンも調査兵団に入る。それは、言葉にしなくてもわかっていたことだった。しかし調査兵団に所属するということは、即ち巨人に出遭う確率が高くなるということ。死ぬ可能性が、高いということ。それは、いつまでも"明日"を望むことができないということだ。結局、三年間も訓練してきた中で自分の声は戻らないまま、このままでは言いたい言葉も言えずに終わってしまう。
(イヤだ……何も伝えずに、死んでしまうなんてイヤだ)
久しく感じていなかった、恐怖に震える拳を強く握って、は食堂を出た。まだ、エレンたちは外にいるだろうか。
「お前、座学はトップなんだから、技巧へ進めって教官も言ってたじゃないか!」
「……死んでも足手まといにはならない!」
驚きを顔に出すエレンに、アルミンはそう言い切った。死ぬ覚悟があると、そう言った。しかしそれが勇気というものか無謀と呼ばれるものかはわからない。
「私も調査兵団にする」
「っ!? おい、お前は首席だろ!? 憲兵団にしろよ!」
「……あなたが憲兵団にするなら私もそうしよう」
ミカサは言う。駐屯兵でも憲兵でも調査兵でも、どこでもいい。ただエレンの傍に居たいのだと。もしもエレンと自分が別の道を歩むとしたら、ミカサは一体どちらを選んでどちらを切り捨てるのだろうとは考える。初めから答えは出ていたから、余計なことは考えず、彼らに近づいた。の足音に気づいたエレンが、眉を潜めてたずねる。
「お前も、とか言うなよ……」
『どうして』
だって、お前は――と言いかけて、エレンは慌てて口を閉ざした。その言葉の意味を理解していたは、エレンがつむごうとしていた言葉を奪った。
『私は兵士には向かないから……』
「っ!」
『それでも、私だって死んでも足手まといにはならない』
アルミンが調査兵団にすると言ったように。だって、三人と離れたくはないのだ。三年前、訓練兵に入団することを決めたときみたいに。
「『もう、家族を失いたくない』」
「……っ」
二人の少女は、揃わない声でそう言った。そして少年は、
「……勝手にしろ」
突き放しつつも、どことなくホッとしたような安堵の表情を浮かべた。
「も調査兵団か……お互い、頑張ろうね」
死なないようにね。とは、アルミンは口にしなかった。エレンはミカサに半ば引きずられるようにして戻って行ったし、アルミンとその場に残ったは、喉の奥に引っかかる言葉を必死に整理していた。つい、で発せられる言葉は持ち合わせていないにとって、ある意味今はとても助かっていた。いつ、口が滑ってしまうかわからないから。しかし、そうでもして気持ちを伝えなければ、とも思っていた。握った拳に気づかれないよう、必死に気持ちを奮い立たせる。
(言わなきゃ……今伝えなきゃ、きっと後悔する。でも、言ったところでどうなる?)
今言わなくては、きっと後悔する。巨人に食われる寸前に、走馬灯のように「あの時言っておけばよかった」だなどとは思いたくないが、しかし伝えたところでそれも意味のないことのように思える。もしもこの胸中にある好意を伝えたとして、受け入れてもらえなければ絶望しか残らない。その後の戦は死にに行くようなものだろうし、生きる糧にはならない。それに例え受け入れられたとしても、だ。この世に未練が残ってしまう……どんな選択をしても、後悔しか残らないとしたら、一体何が正しいのだろう。
(どうしたらいいんだろう……私は、何がしたいんだ……)
ただエレンの傍にいたい、家族であると主張するミカサとは違うとは自覚している。エレンやミカサとは家族なのだが、アルミンとは違うのだ。エレンたちのようにただの幼馴染とも割り切れない。これが恋なのか憧れなのかもわからないが、ただずっと想いを寄せていたのだ。選択のときが迫ってくるにつれて、怖くて怖くて、どうしようもなくなる。
「?」
「!!」
反応のないにアルミンが声をかける。瞬間、びくりと心臓が跳ねる。どうしよう、言うべきか言わざるべきか、早くしなければ夜が明けてしまう。もう永遠に、伝えることができないかもしれないのに。
「どうかしたの? ……もしかして、具合が悪いの?」
『大丈夫。だけど私は少し、迷っている』
「迷っている?」
不思議そうに紙面を覗き込むアルミン。は、核心に触れずにペンを走らせる。
『怖い気持ちと、何かを大切に思う気持ちを、てんびんにかけなくてはならない。どうすればいいと思う?』
「……それは」
何が大切で、何が必要なのか。そんなのは人それぞれで、よくわからないことが多すぎる。しかし、アルミンは真っ直ぐにを見つめたまま、唇を動かした。
「どちらも大切な"感情"だから、僕には選べないな」
「……」
「でも、一番大切なのは、"生きたい"という強い意思だから。今を生き抜くことが出来れば、考える猶予は広がると思うよ」
言うのは簡単だ。それを実行するのがどれだけ難しいか。わかっていてアルミンはそんなことを言うのだろう。弱い自身を、奮い立たせるために。逃げ道を塞ぐために。
「まずは明日を生き抜こう。調査兵になって、死なないために」
「……」
そろそろ戻ろうか、とアルミンが宿舎の方へ戻っていく。その背中を見つめながら、は音のない声で呟いた。
『……好きだよ』
いつかちゃんと自分の声で、伝えるから。だから、どうか死なないで。