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     どれだけの距離を走っただろう。喉の奥がじりじりと焼けるように熱い。それでも弱音を吐くことなく、教官の叱咤の声を背に走り続けた。弱音を吐かないのではなく、単に声が出ないために誰にも聞かれずに済んでいるだけのことだ。まだ、最後尾ではないのが幸いというべきか。しかし、その最後尾に居るのは、幼馴染のアルミンだ。彼は最高に最弱で、それでいて物分りは良いのに諦めは悪い。よくわからないけど、そんなところが好きだったりもする。しかし、待ってあげたりなんかはしない。あの教官に叱られるのも、減点されるのも嫌なのだ。ただでさえ開始から評価が他の兵より低いのだから、できる限り頑張りたいと思う。精一杯、足掻いてみたいと思うから。

    「……」
    「気になるか?」
    「!」

     チラリとアルミンの方へ視線をやれば、ライナーがアルミンに声をかけていた。荷物を持ってあげたようだ。そんな私の視線の先に気づいて声をかけたのは、目つきの鋭いそばかすの女――ユミルだった。彼女自身はもっと先へ行けるだろうに、クリスタに合わせているのだろうか。結果的に並んで走ることになったユミルに指摘されて、後ろを見るのは止めて首を振る。

    「別に悪いとは言ってないだろ? ただ、人の心配しすぎて自分が落ちないように気をつけろよ」
    「ちょっとユミル! 言い方が……」
    「お前はさっさと足を動かせ」

     息を切らせながらも庇ってくれようとするクリスタへも、ユミルは冷たく言い放つ。しかし彼女は、冷たくは見えても実は他人のことを一番見ているように思える。まぁ彼女にとっての一番はやはり、クリスタなのだろうけど。ユミルに叱咤され、クリスタはやや憤慨しつつも足を動かした。からかうように、その数歩後ろをぴったりとくっついてユミルが走っていく。そんな仲睦まじい二人を羨ましく見送って、私は再度後ろを見た。すると、遠かったアルミンが、こちらへと猛スピードで向かってくるのを見た。ライナーに奪われた荷物を取り返して。やはり彼も、負けず嫌いなのだなと呆れつつも安堵する。彼が脱落することはなさそうだ、と。

    「はぁ……はっ」

     アルミンの息遣いが近く聞こえるようになって、私はようやく前を見た。先頭は一体どこにあるのやら。

    『大丈夫?』

     アルミンが私を追い越して、すれ違う瞬間。彼を心配して唇を動かしたけれど、音の無い唇からは息が漏れるだけ。こんなとき、気遣うことも出来ない。伝わらなくても別段困らないと強がっているけれど、実はとても、不便だ。

    「……っ」

     悔しいなと、思った。すぐそこにアルミンがいて、ミカサやエレンよりも私は近い位置で彼を見ているのに。言葉は、届かないのだ。雨音で心臓の音さえもかき消されそうになる。しかし最後尾から私の前まで走り出た彼は、前を見据えて、叫んだ。

    「っ、大丈夫だ!」
    「!?」

     こちらの声が聞こえていたはずはないのだが、アルミンはそう言ってまた前へ進んだ。あえて最後尾を走っていたライナーが後ろから追いかけてきて、いつの間にか足の動きがゆっくりとなっていた私に声をかける。

    「お前も大丈夫か?」
    「……」

     私はただ頷いて答える。ライナーは一言「そうか」と言って、走り出した。これで最後尾は私になった。しかし、教官の叱咤は飛んでこない。私がまだ全力を出していないのを見抜いているのだろう。

    『大丈夫だ!』

     アルミンの声を思い出す。私は、驚きとともに安堵した。ああ、私の声は届いているんだと。怖がる必要はないって。

    「……」

     私もまた、走り出す。アルミンが進んだなら、私がわざわざスピードを落として走る理由はないのだから。



    「大丈夫か、アルミン!?」
    「……う、ん」

     訓練終了後。ゴールをした瞬間、アルミンは全身の力が抜けたようにその場に倒れた。先頭はやはりミカサで、その後ろをジャンとエレンが競いながら走っていたらしい。息は荒いものの、先頭の訓練兵たちはまだまだ余裕がありそうだった。流石、と言わざるを得ない。私もだいぶ体力がないが、アルミンはそれよりも無い。濡らしたタオルを目元に乗せて、アルミンは悔しそうに喘いだ。

    「ごめん……迷惑かけた」
    「水臭いこと言うなよ。迷惑なんて思うか」

     倒れたアルミンを宿舎まで運んだのは、エレン――というよりミカサだ。私は倒れたアルミンに付き添っていただけで、彼をおぶれる力はない。近くの訓練兵が二人を呼んでくれるまで傍にいただけで、実際は何も出来て居ない。私はここで、何を学べるんだろう。

    「……」
    「?」

     ミカサが私の顔を覗き込んだ。でも、今は視線を合わせられない。どうしてだろう。双子なのに、どうしてこんなにも違うのだろう。全方位において誰よりも秀でた能力を持つミカサに、根性だけは人一倍のエレン。アルミンだって、体力こそないものの、とても頭が良いのだ。自分の長所を伸ばせば、彼も必ずや人類に貢献できる人物になれる。しかし、私は。

     ――私は、ミカサの影にしかなれないんだなぁ

     今より少し前なら、それでも良かった。今は身長から、骨格まで差が出てきてしまっていて、全てがミカサより劣っている。双子として生を受けたはずなのに、何故。きっとミカサは全てを持って先に生まれてしまったのだ。私は、そんな彼女の残りカスでしかなかったのかもしれない。そう、初めから。

    「……少し疲れているんじゃ」

     心配そうなミカサの言葉を否定するように、必死に首を振る。違う、そんなことはない。私の抱く疲労感も悲壮感も、今は全く意味などないのだから。ただ、アルミンが訓練兵であることを止めない限りは、エレンが調査兵団になることを諦めない限りは――ミカサがエレンを妄信するのを止めない限りは、私とて私であることを諦めたりはしない。絶対にだ。

    「大丈夫なら、いいけど。……エレン、アルミンをお願い。私はと戻っている」
    「あ、ああ。そっちも頼むな」

     男子用の宿舎にいつまでも女子がいるわけにはいかないから、ミカサに促されるままに部屋を出る。廊下を歩いている最中、ミカサが口を開く。

    「違うから」
    「……?」
    「私が私であるように、は、だから」
    「!」

     違うから。その一言に、私は。

    「……っ」

     言葉も出ないのに、唇を動かした。

    『……わかってるよ』

     ミカサはミカサで私は私。そんなの、初めから理解はしているのだ。それでも、ミカサが有能であればあるほどに、私の無能さが際立って、絶望してしまう。誰よりも中途半端で、無意味な存在だと思えてしまうのだ。
     ミカサほど万能である必要はない。けれど、体力のないアルミンだって座学はトップで、同じように目立った特技のないエレンだって、誰よりも強い目的意識と根性で能力を伸ばしつつある。ならば私は、一体なんだろう。

     ――私の特技は、なんだ……生きる意味は、あるのかな。

    「? 本当に、大丈夫なの?」
    「……」

     大丈夫。ぼんやりとする頭で、頷いて肯定する。

    「まだ悩んでんのか?」
    「!?」
    「……ユミル?」

     男子訓練兵の宿舎を出た私とミカサを待ち構えていたのは、余裕の笑みを浮かべたユミルだった。後ろで気まずそうにしているクリスタと目が合って、彼女は「止められなくてごめんね」と視線で訴えていた。

    「思ったんだが、お前はミカサと同じ人間の腹から生まれたことに引け目を感じているのか?」
    「……っ!」
    「そんなこと、ない。は……」
    「お前には聞いてないんだ。同じ血が流れている兄弟だろうと、それは他の人間がどうこう言える問題じゃない」

     ユミルの言葉に、ミカサが言葉を飲み込む。確かに、彼女の言葉は正論だった。きっと私はミカサと同じ血が流れる一個の人間として、自分が認められないのだ。ユミルはそれを見抜いている。誰よりも、きっとミカサや、私自身よりも。

    「言っただろ? 人の心配しすぎて落ちるなって」
    「……」
    「それでも納得出来ないなら、教えてやるよ。お前の長所は、強いて言えばそうだな……人への想いが強すぎることだな。馬鹿みたい、に……」
    「ユミル!」

     クリスタが、「もういいでしょ」とユミルの腕を引っ張って行く。ユミルも、もうそれ以上は何も言わなかった。ただ、最後に振り向いた瞬間、彼女はにやりと笑って見せた。

    「じゃ、またあとでな。食堂で会おうぜ」

     去り行く二人を見つめながら、ミカサは憤慨したように「気にしなくて良い」と言った。私が傷ついたと思ったのだろうか。むしろ、私はユミルに感謝の気持ちすら抱いていたというのに。

    『お前の長所は』
    『人への想いが強い』

     その思いが強すぎて、押し潰されそうなときはどうしたら良いのだろう。だから、初めからユミルは教えてくれていたのだ。平凡すぎる私の心が、いつか壊れてしまわないだろうかと、心配してくれているのだろう。怖い顔でブツブツとユミルへの報復を考え始めるミカサの手を握って、私は笑った。心配は要らないと。

    「?」
    『大丈夫だよ』

     ミカサがミカサであるように、私は私として此処にいるのだ。アナタの影ではなく、一個の人間として、この地に立っていたいのだ。全てにおいてミカサに劣っていても、根性がなくても、座学ではアルミンに敵わずとも。彼らが諦めないなら、私だって諦めはしないのだ。皆が前を見ているなら、私だって振り返りはしないのだ。誰よりも劣っている私ができる唯一のことは、惨めに這い蹲って生きていくこと。
     全ては彼らと一緒に居たいという願いゆえ。

    to be continued...





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