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     目の前の光景に呆然とする。初めての訓練でこんな事があり得るのだろうか。

    「何をやっている、エレン・イェーガー!! 上体を起こせ!」
    「……!!」

     蒼白なまま宙吊りになったエレンと視線がかち合う。がんばれ、と真剣なエールを送ったが、果たして今の彼には届いていたかも定かではない。
     朝起きて身支度を済ませて朝食を摂った。いつもと同じ野菜スープとパンひとつ。黙々と食事を摂った後は昨日のように訓練場に整列して、教官の言葉に耳を傾けて、本日から始まる訓練についての話を聞いた。今日は、巨人と戦う上で基本となる立体機動の適正審査を行うということで、前列から順に機械の前に立つ。適正の合格基準は、腰の両側をワイヤーで吊り上げ、直立不動のままバランスを保つというものだ。ミカサはもちろん、アルミンやも通常合格したのだが、幼馴染たちが見守る中、エレンは機械とは逆さまの姿勢を保っていた。これでは、適正審査は不合格なのである。

    「まさか、エレンが……」
    「……っ」

     アルミンが、信じられないというような愕然とした表情でエレンを見上げ、ミカサも息を呑んでエレンを見ていたが、彼女の表情はどことなく、安心した風でもあって、はそんなミカサを横目で見た。

    (やっぱり、ミカサの考えも変わらないんだろうな……)

     ミカサは、エレンが訓練兵になるのを反対していた。きっと、今でもそれは変わっていないのだろう。エレンが訓練兵になる道を諦めないから、彼女もこの道を選んだだけなのであって、きっとエレンが不合格になれば、ミカサは喜んでエレンと共に開拓地に戻ることも厭わないだろう。エレンは絶対に、納得しないだろうけれど。



    「基本どおりやれば出来るはず。上手くやろうとか考えなくていい。前後のバランスに気をつけて、腰巻と足裏に体重を乗せる……」
    「落ち着いてやればできるよ! 僕にだってできたんだから」
    「……」

     訓練が終わってからの夕刻、他の訓練兵たちが宿舎に戻ってからエレンはアルミン、ミカサ、が見守る中で練習を続けていた。最も高い適性を持ったミカサがエレンにアドバイスをするものの、特別なことは含まれて居ない。極々当たり前のことなのだが。

    「……よし、今度こそ出来そうな気がする! 上げてくれ、アルミン」
    「うんっ」

     エレンのタイミングに合わせて、アルミンがリールを巻いた。アルミンにとっては中々重そうだ。ゆっくりとワイヤーが上がった瞬間、エレンの足の踏ん張りは見られたが、それらは持続することなくぐらり、崩れた。

    「!?」
    「エレン!!」

     勢い良く顔面を打ちつけたエレン。白目を向いていて中々に怖い……ではなく、危険だった。少しだけ頭を切っていて命に別状はないが、気を失ってしまった彼を、ミカサが担ぐ。少し離れたところで様子を傍観していたがすぐに動いて、宿舎の方へと向かう。教官から傷薬と包帯を貰うためである。彼女なりの咄嗟の判断であり、アルミンとミカサの声も聞かずに走り出してしまったは、忘れていた。自分が発声できないことを。

    「……っ!」

     助けを求めようにも、声が出なければ、喋れなければ伝わらない。教官の部屋まで行こうと、男子用の寄宿舎を通り過ぎたところで事の重大さに気づいたは、はっとして足を止める。

    (どうしよう……ミカサたちを待つか……教官を連れ出す? でも、ああ、どうしよう。そんなことよりエレンが大変なのに……)

    「ミカサ?」
    「!」

     名前を呼ばれて振り返る。自分はミカサではないのだが、どうやら間違っているようだ。振り返ると、そこには訓練兵のジャン・キルシュタインとマルコ・ボットの姿があった。二人とも、中々の優秀さだった。そんな中、返事をしないに首を傾げたジャンへ、マルコが小さな声で告げる。

    「違うよ、ジャン。彼女はミカサじゃない」
    「! あ、ああ、そうだ……ミカサ、髪切ってたもんなぁ」

     ああ、でも、あれも悪くは無かったな……などとぼんやりミカサの姿を思い出してにやけるジャンに正直気持ち悪いなとか思いつつ、は二人を見上げた。

    「君は、だよね? 確か、ミカサとは双子なんだっけ……」

     こくり、が頷く。へと歩いて近づいてきたジャンもまた、の身長が自分よりもずっと低いことに、ミカサとは全然違うな、と呟いた。確かにその通りなのだが、目の前でハッキリと言われては、どんな顔をして良いか解らずに困ってしまう。無言のまま固まっているに、マルコが優しく声をかける。

    「教官に用があるの? でも、話せないんじゃ用件が伝えられないだろ?」
    「……」

     その通りだった。俯いて項垂れるに、マルコは胸ポケットにしまっていたメモとペンを取り出してに差し出す。

    「貸してあげるよ」
    「!」
    「字は書けるんだよね?」

     後で返してくれれば良いから、と微笑んだマルコの手をペンとメモごと握り締めて、は唇を震わせた。

    『ありがとう!』
    「……っ!」

     その嬉しそうな表情に、後に残されたマルコとジャンは顔を赤くして立ち尽くしていた。ミカサと同じ顔で、あの笑顔は卑怯だ、とジャンがぼやいた。
     それから、は教官の部屋を叩いて、筆談で状況を説明後、薬と包帯を受け取ってエレンたちのもとへと戻り、無事に彼の傷の手当ができたのだった。幸い少し切れてコブになっただけで、大きな外傷にはならずに済んだ。



    「……」
    「気にしても仕方ないよ……明日できるようになればいいんだから」

     夕食時、パンを手に放心していたエレンにアルミンが眉を寄せる。まだチャンスはあるのだから、諦めるには早いと。しかし、こんなことではやつらを根絶やしにすることは出来ないと悔しがるエレンの隣でミカサがぽつりと言う。

    「もう、そんなこと目指すべきじゃない」
    「!」
    「何だって?」
    「もう、兵士を目指すべきではないと言っている。何も、命を投げ打つことだけが戦うことじゃない」

     ミカサの言葉に、エレンは反論する。あの日の光景を見ておきながら、そんなことは出来ないと。

    「でも、その覚悟の程は関係ない」
    「はぁ? 何でだよ」
    「……兵士になれるかどうか判断するのは、エレンじゃないから」
    「!!」

     エレンはかなりショックを受けたようだった。その後少ししてから鐘が鳴って、移動を始める訓練兵たちだったが、ミカサは滔々と喋り続けた。エレンはアルミンを強引に誘っていなくなった。少しだけこちらを気にしたアルミンと目が合ったが、彼は苛立ちを含んだエレンに強制連行された。少しだけミカサを待とうかとも思っただったが、ポケットにまだマルコから借りたペンと手帳が入っていることを思い出して席を立つ。入れ違いにサシャ・ブラウス訓練兵がミカサの隣に座るのを横目で見ながら。



    「どうして先に行くの」
    『ミカサが自分の世界に入ってたから』

     借りたものを返そうとマルコを探したが、結局見つからず、男子宿舎へと入ってゆくわけも行かず、明日にでも返そうと思いつつ今も借りている。小さな走り書きを見て、ミカサが溜息を吐く。エレンもアルミンもいないし、サシャと残されたと珍しく寂しそうにぼやいていた。

    『信じてあげたらいいのに』
    「エレンのこと? ……信じていないわけじゃない」
    『そういうこと、ちゃんと言ってあげなきゃわかんない 特にエレンには』

     そうでなくてもエレンは感情的になりやすい。ミカサも理解力は高いが言語力が低いので相手に伝わりにくい。だから、アルミンが苦労するのだとは思った。自分が喋れれば、もう少し二人をまとめることができるのに、とも。

    「大丈夫……エレンは、ずっと私と一緒だから」

     心配しなくても、誰もミカサからエレンを取り上げたりはしないよ。少し呆れつつ、が心の中で呟く。本当に、ミカサはエレンに依存的だ。メモ書きで会話するとミカサは、傍から見ていてミカサが独り言を言っているようにしか見えない。時折好奇の視線が送られてきて、視線を返せば反らされる。

    『私も どこでもいい』
    「……うん」

     何が、とはミカサは聞かなかった。互いに言語が未熟でも、通じ合えている自信があるから。きっと、恐らく、エレンもアルミンも、ミカサのことものことも、よくわかっていないだろう。

     ――どこでもいい。ミカサと、アルミンと、エレンが一緒なら。

     それでもいつか、離れ離れになる日がくるとしたら。もしも一人だけしか選べないなんて残酷な瞬間が迫っていたら。誰を選ぶだろう。ミカサはエレンだろうか。しかし、現状では大切な者を選定するのは難しかった。

    『でもまずは信じてあげて エレンはきっと 合格できるよ』
    「……わかってる」



     翌日の訓練で、エレンの追試が行われた。全訓練兵が見守る中、一人だけワイヤーに吊られる。それだけで、緊張で吐きそうなほど胸が苦しくなる。震える足にがっしりと力を入れて、手を広げてバランスをとる。一時的に、数秒間だけ姿勢を保つことに成功したエレンだったが、気を抜いた瞬間にやはり、ぐるりと一回転してしまった。まだだ、ともがき続けるエレンをよそに、キース教官はエレンを降ろせと無慈悲にも思える命を下した。泣きそうに、エレンの顔が歪む。ああ、泣いてしまうかな。ミカサの言うとおり、皆で開拓地へ戻るしかないのだろうか。畑仕事も嫌いではないけれど、とがぼんやりと考えたが、キース教官は他の訓練兵に装備を交換しろと命じた。わけが解らずと言った様子でとりあえずベルトを交換し終えたエレンがもう一度装置に身を委ねると、先ほどとは一変して今度は自然とバランスとることができていた。

    「え……?」
    「ベルトの欠陥だ」

     今まで破損したことはなかったが、新たに整備項目に加える必要がある、と教官が呟く。不安そうに「俺の適正は……」と尋ねるエレンに、問題ないと教官の言葉。そんなの当たり前のことだ。

    「何とかなったようだな……」
    「目で、どうだって言ってるよ」
    「違う……」

     こちらを見つめるエレンに、ライナー・ブラウン訓練兵が安心したように呟いて、アルミンもホッと息を吐く。を挟んでアルミンの二つ隣に整列していたミカサは、真剣な眼差しでエレンを見ながら言う。

    「これで私と離れずに済んだと思って、安心している……」
    「っ!!」

     呆けるアルミンや、昨日エレンを励ましてくれたらしいライナー・ブラウンとベルトルト・フーバーの両名は、ミカサの発言に目を丸くして呆れていた。そんな中、は音もなく大笑いしていた。

     ――良かった、本当に良かった。これで、みんな此処でやっていける。一緒に……

    to be continued...





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