09




     847年。シガンシナ区陥落から二年の月日が経ち、数百名の志願者たちがウォール・ローゼ南方面駐屯の兵舎に集った。教官のスキンヘッドの男が、志願者の顔をぐるりと見回して鼻で笑った。

    「私が運悪く貴様らを担当することになったキース・シャーディスだ」

     そして、前列から順に洗礼とやらを行っていく。貴様は何者だと聞かれ、名乗ったら罵声で返される。今までの自分を全否定されるなんて、とは思うが、最初から自分という人間を神と同格だなどとも思ってはいないので、五列三番目に整列していた少女にとって、それはどうでも良いことだった。最初に教わった"公に心臓を捧げる敬礼"とやらで間違って覚えたものや正しくできていなかった連中は、それだけでこっ酷く叱られていたけれど。

    「貴様は何者だ!」
    「……」

     少女は力強く足を揃え、拳を左胸に当てて直立する。見事な敬礼である。しかし、彼女の唇は閉ざされたまま。教官であるキースを真っ直ぐに見据え、一言も喋ろうとはしなかった。

    「聞いているのか! 何者だ、何者なんだ貴様は!?」
    「……」

     少女は喋らない。その様子にざわつく他の志願者たち。先に左右逆の敬礼で注意を受けたコニー・スプリンガーや、芋を手にしたままの敬礼を見せたサシャ・ブラウス同様に、教官の米神に青筋が浮き始める。既に洗礼が終わり後ろを向いた状態でその様子を見ていた三列目のアルミンやエレンは、幼馴染の少女の危機にひやりと汗が伝う。事情を説明し、助けてやりたい。しかしそれは、彼女のためにはならないのでは、とも思って、何も言えずにいた。やがて不審に思ったキースが、後ろ手に持っていた書類をめくり始めた。それからふと、未だ真っ直ぐな瞳で見つめ続ける少女を鼻で笑う。

    「貴様の名前は・アッカーマンか。書類には発声障害の記述があるが……貴様は、何しに此処へ来た? 他人との意思の疎通が出来ないものが、兵士になれると思っているのか? 巨人のエサになって終わりだぞ!」
    「……」

     真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、はキースを見上げた。そして引き結んでいた彼女の唇が、ゆるやかに開き始めた。

    『本望』
    「……!」

     ――自分の意志で、私は此処に来た。もしその結果死んだとしても、誰のせいでもない。自分が決めた故の結末ならば、後悔はしない。

     強い意思が込められた眼差しに、暫くにらみ合いを続けた末にキースは告げる。

    「……特例だ。認めてやろう。修練に励め」
    「!」

     そう言って次の志願者のもとへ行くキースへ、はもう一度ぴしりと敬礼しなおした。



    「っだー、もう、ひやひやさせんなよ」
    「本当だよね。僕なんか、自分のとき以上に緊張したよ」

     兵舎に向かって歩く途中で、エレンとアルミンがに話しかける。教官から入団を許されたは、二人に照れ笑いを浮かべた。それは、先ほど鋭い眼光を放っていた少女とは思えなかった。エレンの隣を歩いていたミカサが、ぽつりと言う。

    「私は、大丈夫だって思ってた……」
    「嘘つけよ。お前、教官のことすっげー睨んでただろ」

     エレンに突っ込まれ、ミカサは黙った。
     これまで、お金がないから手帳も買えずにいたし、ペンもない。確かに意志の疎通は出来ないかもしれないが、それでも良いとは言った。発声があったとしても、思いの全てを伝えられるわけではないのだと。

    「……なあ、あれ」

     夕食前、兵舎から数人の男女が訓練場を見ていた。そこには、"芋女"と名づけられたサシャ・ブラウスの姿があった。彼女は教官の逆鱗に触れ、死ぬまで走れと言われたのだ。ちなみに彼女の後にもを含む志願者が控えていたため、他の訓練兵が整列する中、一人走り続けたのである。

    「すげぇな、もう五時間走り続けてるぜ……」

     しかし、死ぬまで走れと言われた時より、晩飯抜きだと言われた時の方が悲壮な顔をしていた、と同期となる訓練兵たちは呆れていた。図太い神経だ、見習いたいなどとが思っていることなど知らず。

    「ん? あれは……?」
    「脱落者よ。開拓地への移動を願ったの」
    「そんな、まだ初日なのに……」

     馬車で揺られて行く、訓練兵となることすら許されなかった者達を見ながらそうエレンが呟く。

    「仕方ないさ。力のない者は去るしかない」
    「!」
    「また、石拾いや草むしりをやりたいなんてな……」

     エレンの言葉に反応示したそばかすの少年が、エレンが洗礼を受けて居ないことについて出身を尋ねた。

    「こいつらと同じ、シガンシナ区だ」
    「……」

     エレンが、アルミンとを見ながら言った。ミカサは部屋に荷物を置きに行っていた。自分も行くと伝えたのだが、ミカサは「エレンを見張っていて」と言い残し、荷物を全て一人で持って行ってしまった。元々少ない荷物ではあるが、少女一人で持つには重い。超人的身体能力を持つミカサに対して、は平々凡々な身体しか持ち合わせていない。だから、用がないと言われたようで寂しくも思った。
     エレンの出身を聞いた少年の内一人は気の毒そうに目を伏せたが、もう一人が、目を輝かせた。いかにも頭の悪そうな坊主頭の、敬礼を逆にして教官に叱られていたコニーである。

    「ってことはさ、その日もいたよな!? 見たことあるのか、超大型巨人!」
    「!」
    「あ、ああ……」



     その晩の食事時。スープをすするエレンを、他地方出身の訓練兵たちが取り囲む。好奇心だけで、何とも不謹慎な連中だろうと、はそれらを遠巻きにしながら眺めていた。超大型巨人の特徴から、普通の巨人の様子を聞かれたエレンは、母が捕食された様を思い出し、口を押さえた。良識のありそうな、先ほどのそばかす少年――マルコが、もう止めようと言ったのを、エレンの言葉が更に遮る。

    「いや、違うぞ! 巨人なんてな、実際は大した事なんかない……」

     自分たちが立体機動装置を使いこなすことが出来れば、巨人など敵ではない。その使いこなすのがどれほど難しいことかも考えず、エレンはパンを持つ手に力を込める。いつか自分は巨人をぶっ殺して――と言ったところで、少し離れた場所から冷ややかな野次が飛んできた。

    「おいおい、正気か?」
    「……?」
    「お前今、調査兵団に入りたいって言ったのか?」
    「ああ、そうだが? ……お前は確か、憲兵団に入りたいんだったよな」

     次第に険悪な雰囲気になりつつある二人に、しんと食堂が静まり返る。とひっそり隅で食事を摂っていたアルミンが、どうしようと小声で言ったが、は喋れるはずもなく無言でスープを啜った。放っておけば? とでも言うように、視線だけをエレンに向けながら。いよいよ殴りあいに発展しそうになる二人だったが、その瞬間、食事終了の鐘が鳴る。

    「……悪かったな、これで手打ちにしようぜ」
    「……ああ」

     二人は手を打って、エレンが先に食堂を出る。それをミカサが追おうと席を立ったのだが、エレンと険悪だったジャンという訓練兵が呼び止めた。

    (あ、口説かれてる……)

     見慣れない顔立ちだとか、綺麗な黒髪だとか。澄ましたような少年でも、女性に対する好意を持ったりするんだなぁ、などと、ミカサと同じ顔を持つはぼんやりと人事のように考えていた。代わりに二人分の食器を下げてくれたアルミンが戻ってきて、一緒に食堂を出る。そこには、立ち尽くしたジャンと、その視線の先には仲良さそうに肩を並べて歩くエレンとミカサの姿があった。余計な火の粉は被りたくない、とはアルミンの服を引っ張って遠回りして宿舎へ向かう。その中で、ミカサとエレンの会話が断片的に聞こえた。

    「お前……髪、長すぎじゃねぇのか?」
    「わかった、切ろう。どの辺まで切るべきだと思う?」
    「しらねぇよ。自分で考えろ」

     なんて、ミカサが自分の髪をいじりながら言う。それを聞いたも、自分の髪をふと一束掴んで見つめる。

    (長い、かな……)

     今までずっとミカサと同じことをしていた。同じ格好をしたし、同じものを持った。違うのは、紙とペンを持っているか否か。

    (なら、私も……)

     結構長い髪は好きだったのだけれど、と思いつつ、誰かハサミを持っていただろうか、とも考える。考えたところで、アルミンがそんなに気がついて苦笑する。

    「切っちゃうの?」
    「!」
    「別に、そこまでミカサと同じにする必要はないんじゃないかな」

     がアルミンを見る。去年あたりから、体格に急激に差が出始めて、エレンとミカサが同じくらいの身長なのに比べ、はアルミンよりも少し低めだ。背はどうしようもないから、せめて格好は同じでいたかった。しかし、アルミンは言う。

    「ミカサはエレンの言葉が絶対っていう節があるからね……髪だって特に長さは気にしていないようだし。せっかく綺麗な髪なのに、勿体無いよ」
    「っ!」

     アルミンが無邪気に笑って、の髪に触れた。確かにミカサはエレンの言葉が絶対で、エレンの命が最優先で。けれど、はそこまでエレンへの依存は無い。長くて綺麗な髪だと言ってくれたアルミンは、もし邪魔なら結べば良いよと、小さな髪留めを渡してくれた。

    「僕の母さんのなんだ。持っていても僕には必要ないし、使ってよ」

     そんな風に言った。確かアルミンの父親と母親は、シガンシナ区陥落より前に壁の外で亡くなっていて、それなのにずっと大事に持っていたのかと思うと、心が切なくなる。受け取れない。が首を振ると、アルミンは良いんだと言った。

    「思い出より今だよ、」
    「……」
    「君の髪なら似合うと思うんだ」

     そんなアルミンの言葉が嬉しくて、は無言のまま、やがて自身の長い髪を指先で器用にまとめ、パチンと髪留めで留めた。黒い髪に、翡翠色の装飾がよく栄える。

    「うん。明日からの訓練はそれで出なよ」

     こくり。が頷いた。彼女は今日初めて、ミカサと違う道を歩んだのだった。

    to be continued...





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