外壁であるウォール・マリアから脱出する船の中。どこからも、泣き声と嘆きだけが聞こえてきた。どうしてこんな目に遭うんだ、お母さんお父さんどこ、明日からどうしたらいいの。誰も答えてくれないから、皆空に向かって嘆くしかない。この世に存在し得ない神は、我々人類を守ってなどくれないのだから。
「……」
「寒い?」
ぎゅっと膝の上で拳を握ったら、アルミンが隣で尋ねて来た。いいや、違う。私は首を振って否定した。その後の会話は続かない。今の私には、誰と会話することもできない。ミカサ、ミカサ、どこ。エレンもミカサもまだ来ない。死んでないって信じたいけれど、最悪な事態ばかりが頭から離れない。もうすぐ門が閉まってしまう。もう間に合わないのか……と、絶望に打ちひしがれそうになった時、アルミンがあっと声を上げた。
「きたっ、エレンとミカサだ!」
「!」
顔を上げて、立ち上がる。船へと続く橋を渡る人波の中に二人の姿が見えた。アルミンは声をかけようとしたけれど、隣にいたおじいさんに「今は止めておきなさい」とたしなめられる。ああ、やっぱり、ダメだったんだ。おばさんは――
「……」
どうしようもなかった、なんて言い訳だ。私たちはまだ子供で、何もできない。大切な人を守れないのは、この身が無力だからだ。
二人のもとへ行くのは諦めて、座りなおす。アルミンも同じように、ずるずると壁に身を預けて座った。兵士に促されるままに船へと乗り込んだエレンたちは言葉を発さず、アルミンや私とは離れたところにいた。
「……何だ?」
ドーン、と大きな大砲の音。だけど、聞こえたのはそれだけではなかった。強い地鳴り。まるで、巨大な生物の足音のような、大きなおと。
「!?」
背中がぞっとする。また、だ。この靄がかかったような気持ちの悪い感覚は、一体なんだろう。よくわからない恐怖に涙が出そうになって、それを飲み込むために空を見上げた。黒煙が立ち込める。ここからじゃ巨人の恐ろしさはわからなくて、私は頭が痛くなる。ああ、またこれだ。私は一番大事なときに、そこにいないから。
「ミカサ! エレン……無事!?」
「アルミン……うん。私たちは、大丈夫」
「そうか……」
アルミンがホッと息を吐いて、ミカサが私を見る。怪我はない? そう聞かれて、私は頷いた。紙もペンもない、言葉を伝えられない私にミカサは眉根を寄せる。大丈夫だから。そうミカサは瞳で言った。私たちは、言葉が無くても通じ合える。私たちは、姉妹という名の分身だから。
でも、だけれど。
――それでも、私はあなたにはなれないの……。あなたが視た恐ろしいものを、私はわかってあげられない。
ミカサとアルミンが双方の無事を確認して安堵したとき、それまで黙っていたエレンが怖い目で呻いた。
「……駆逐、してやる……」
「!?」
その目は、憎悪以外の何ものでもない。遠ざかっていくマリアの壁を見ながら、エレンは駆逐、駆逐と呟く。心配そうなミカサの声を無視し、呼びかけるアルミンの手をはね退けながら。
「駆逐してやる……! この世から、一匹残らず……!!」
「エレン……!?」
きょじんを、くちくする。くちくって、どういうこと? 害虫を駆除とか、畑を耕していたときにお父さんが言っていたそういう言葉に似ている。駆除する。駆逐する。……巨人を? どうやって、エレン。他人が喰われてゆくのをただ呆然と見ていた私たち人類に、どうやって巨人を殺せというの。巨人から見れば、害虫は私たちの方かも知れないのに。
「……今は、休もう。少しでも、身体を休めて」
ギリギリと歯を食いしばっているエレンを無理やり落ち着かせる。確かに、皆心身ともにボロボロで疲れ果てている。朝まで、街に着くまで。少しでも休んでおいたほうがいいというミカサの正論に、エレンはむっとしたまま座り込む。きっと、巨人が憎い気持ちは在れど、彼も自分自身が消耗していることを理解していた。だから、反発しなかったのだろう。そして、わたしも。
「……」
「?」
ミカサと、エレンと、アルミン。あのまま離れ離れになってしまうと思った。カルラおばさんは助けられなかったけれど、とハンネスさんは謝罪をしたが、私はそれでも彼に感謝した。おばさんが死んでしまって悲しい。悔しい。でも、それでも。
――三人、また一緒に……
会えてよかった。死なないで良かった。エレン、ミカサ。あのまま巨人に食われて、死んでしまうかと思った。安心して、安心して、私は、気づけば目を瞑って眠りに就いていた。
「……寝ちゃった」
「きっと、安心したんだと思う……ありがとう、アルミン」
「え?」
船に揺られながら、息をしているかと疑いたくなってしまうほど静かに眠るを見ながらアルミンとミカサは言葉を交わす。エレンはうずくまったまま、少しでも身体を休めようと会話に加わることはなかった。
「あの時、を止めてくれて。……守ってくれて、ありがとう」
ミカサは感謝の言葉をアルミンへ告げる。意味がわからない、と訝しむアルミンは、もう一度「ありがとう」というミカサの言葉を聞き流しながら、の寝顔を見て呟く。
「違うんだ……別に感謝されるようなことは、ない……」
ただ、恐怖しただけに過ぎない。アルミンは、自分はただ臆病であっただけだと首を振る。ミカサの注意はもう自分ではなく、うとうとと舟を漕ぎ始めたエレンに注がれている。そのため、誰に言うでもなくアルミンは空を仰いで続ける。
「僕は、一度も……」
このとき、彼が発した言葉は誰にも届きはしなかった。かわりに、静かな川のせせらぎだけが狭い鼓膜に反響する。
――僕は、一度も。本気で戦ったことも、守ろうとしたこともないから……。
この日人類は、活動領域をウォール・ローゼまで後退せざるを得なくなった。そして、その間食われた人類は、およそ一万に上ったという。
やっとのことで逃げ延びた四人の少年少女たちは、共に脱出した兵士やアルミンの祖父に導かれるまま、避難所へと集められることになる。