エレンとミカサは足が速い。私も運動ができないわけではないけれど、彼らにはついていけない。それはあまり必死に走っていないだけかも知れないけれど。アルミンは必死に走っても遅いから、たぶんそれよりはマシのはずだ。私が本気で走ったらきっとアルミンが落ち込むから、今はいいやと思って私は歩き出した。一人で街を歩くのは、久しぶりだ。
「おう、ミカサじゃねーか!」
「……?」
ゆっくり歩き出したところを背後から声をかけられて振り返る。私をミカサと呼んだその人は、エレンたちと出かけたときに何度か会ったことがある。この街の駐屯兵団の人だ。彼は「エレンと一緒じゃないのか」、などと話しかけてきたが、私はどう返していいかわからない。返答しない私に不思議に思って、まじまじと顔を見て、あっと声を上げた。
「お前、ミカサじゃねぇな? ええっと、確か……ああ、思い出した。ミコトか!」
「……」
今度ははっきりと頷いて肯定する。駐屯兵団(エレン曰く壁工事団)のハンネスさんは、一人でいるなんて珍しいからてっきりミカサだと思った、なんて言った。確かに私が一人でいるのは珍しい、というか滅多にないことだ。それだけミカサもエレンも、アルミンでさえ、私に過保護だということなのだけれど。
「どこか行く場所があるんなら送ってってやろうか」
『だいじょうぶ ありがとうございます』
「お、そうか……ま、気をつけてけよ」
ハンネスさんの申し出をやんわりと断り、私は足を進める。少し進むと、エレンとミカサを見つけた。見れば、アルミンも一緒だ。私は声をかけることもなく後ろからそっと近づいて、アルミンの頬が赤く腫れているのを見た。また、殴られたの?
「あ、ミコト」
「! お前、一人で来たのか!?」
ミカサが最初に気がついて、私の名前を聞いたアルミンは少しだけ肩を震わせた。エレンは私を見てそう咎めるけれど、私は言う。
『だって二人ともはやいし。わたしも、エレンが心配だったから』
「……う」
過保護すぎるのだ。声が出なくて他人との意思の疎通は確かに難しい。しかし、私だって自分のことは自分で出来る。全てを守ってもらわずとも、立って歩けるのだ。
『ずっと、守られてたいわけないでしょ』
「! ……ミコトは、強いね」
私の書いた字を見て一番驚いたのはアルミンだった。強い? 本当に思っていることを言っただけだ。アルミンだって、本当はそう思っているのでしょう? 思ったけど言わなかったのは、それを実行できるだけの力が彼にはないからだ。
守ってもらってばかりなのはダメだってわかっている。情けなくて、何とかしたいのに弱い自分にはできない。その結果また守ってもらう。心が、体が、張り裂けてしまいそうになるのを耐えているのだ。私には、アルミンの気持ちが全部ではないけれど、少しだけわかる。だから、私なんかを強いって言えるんだ。
『ねぇ、帰ろう。おばさんも心配してる』
「はっ……やだね!!」
そういや、よくも親にバラしたな、とエレンがミカサに食って掛かる。協力した覚えはない、とミカサ。確かに彼女は最初から否定派だったから。
「で……どうだった?」
「そりゃ……喜ばれはしない」
そりゃそうだよ。アルミンが諦めた様に溜息を吐く。
「何だよ、お前もやめろって言うのか!?」
「だって、危険だし……気持ちはわかるけど。確かに、この壁の中は未来永劫安全だと信じきってる人はどうかと思うよ」
アルミンの言葉に、私は背筋が凍るのを感じた。あれ? なんだろう……なんだろう、この感覚は。
「百年、壁が壊されなかったといって、今日壊されない保障なんかどこにもないのに……」
その瞬間、ドオォンという爆音が国中に響いた。何だ、一体何が起こったんだろう。立っていた私と、反射的に一番早く動き出したアルミンは、音のした方へと走り、同時にそれを見た。
「あ……や、ヤツだ……!」
巨人だ。エレンがつぶやく。でも、おかしい。巨人というのは、現在発見されているもので最長十五メートルと聞く。だから、この五十メートルの壁は現在まで壊されずにいるのだ。それなのに、その壁から顔を出しているなんて。こいつは一体、何だ? どうして今まで、発見できずにいたのだろう。
「あ……!?」
超大型巨人が、ウォール・マリアの壁を蹴破った。いくつもの破片が、家々にぶつかって街を破壊していく。逃げなければ、と叫んだアルミンの言葉をきかず、エレンは反対方向へと走り出す。
「エレン!?」
「向こうに、俺の家が……まだ母さんが!」
「!!」
青い顔をして走ったエレンと、追いかけたミカサ。当然私も追いかけるために走り出そうとしたけれど、アルミンによって阻まれた。
「待って! もう、この街はダメだ……ここは、大量の巨人に占領されるッ」
でも、と私は唇を動かす。書いている暇なんてない。でも、エレンとミカサはカルラおばさんの元へ向かってしまった。私も助けに行かなければ。見捨てるなんて薄情なことはできない。
「僕たちが行ったところでどうにかなるはずないだろ!」
「ッ!」
「とにかく、誰か大人に……そうだ、駐屯兵団に!」
その時、私の脳裏には先ほど会ったハンネスさんの顔が浮かんだ。確か向こうに居たはずだ。きっと今頃は、近辺の住民の避難にあたっているはず。私はアルミンの手を引いて、走り出した。
「ミコト!?」
「……っ」
私一人では、助けてくれる大人を見つけても、状況の説明までにどうしても時間がかかってしまう。そんなことをしている間にエレンたちが殺されてしまうかもしれない……だから、アルミンが居なきゃダメだと思った。しばらく走ると、ハンネスさんはいた。予想通り、住民を誘導している最中だ。アルミンはその姿を見つけ、大声で叫んだ。
「ハンネスさんっ!!!」
「!! アルミン、それにミコトか! お前ら、怪我はないな!? 無事なら、門まで走れ! 船から脱出を――」
「それよりお願いです!! エレンとミカサを助けてください!!」
「!? 何だって?」
アルミンは事情を説明する。巨人が蹴り飛ばした壁の破片が、エレンの家の方角へ飛んでいったこと。エレンとミカサは母親を助けに走っていってしまったこと。そして、巨人が迫っていることも。
「わかった。俺が行くから、お前らは先に逃げてろ。いいな!?」
「……」
でも、
「いいな、ミコト!」
でも、わたしは
――いやだ……ミカサを、エレンをおいて、先に行くなんて……
「あいつらは絶対俺が連れてくる。アルミン、ミコトのことを守ってやれ」
「! う、うん……!!」
渋る私の腕をアルミンが、強い力で握る。こんな強い力が出たんだ、と考えている暇などなくて、私はイヤだと暴れた。離して、アルミン。私はハンネスさんと一緒にエレンたちを助けに行く。
「ミコト! 君が行ったところで、どうにもならないよ!」
「!?」
「むしろ、足手まといになる……二人なら助けられても、三人は連れて行けない。ハンネスさんに任せて、僕らは待つんだ」
ただ悔しくて。それでもアルミンの言葉を理解して力が抜けた私の腕から手を離し、アルミンは今度は手を握った。ゆっくりと引かれて、無気力になった私は彼に従った。途中で落としてしまったノートもペンも、逃げ惑う人々の足元でゴミクズになった。これで私は、人と心を通わせる手段をひとつ失った。
「アルミン、こっちだ」
「! おじいちゃんっ!」
船の付近でアルミンのおじいさんが待っていた。彼はアルミンごと私も抱きしめて、無事で良かったと言ってくれたけれど、私はただエレンとミカサが心配でならなかった。はやく、はやく。崩れ行く街を見ながら、久しぶりに流した涙が頬を伝う。半身であるミカサが、彼女も泣いている気がしたから。
――もう、戻らない……ここへは、戻ってこれない……
百年という仮初の平穏は消えた。私たちは、絶望の底から這い上がるすべを見つけなければならなくなったのだ。