あれはいつだったろうか。アルミンが祖父の書庫から勝手に持ち出してきた古い書籍には、現代民の誰もが触れたことのない外の世界のことが綴られていた。炎の水、氷の大地、砂の雪原。そしてこの世界の大半を占める"ウミ"という名の塩水。エレンは目を輝かせてアルミンの言葉に耳を傾ける。以来私とミカサも加わり、こうやって大人には内緒のひとときを送るのが日課のようになっていた。キラキラと瞳を輝かせて本を覗き込むエレンとアルミン。それを咎めるような視線を送っていたミカサの隣で私は、羨ましいと思っていた。夢を見ることも、それを否定するのも、私はどちらもできないから。ああでもないこうでもないと論議を繰り返す三人を、蚊帳の外から見つめているだけの私は、彼らにとってどんな存在なのだろうか。
「ミコト」
「?」
外に出ることについて口論になりつつあるエレンとミカサをそのままにして、本を手にしたアルミンが、少し離れたところで様子を見ていた私のところへ駆け寄ってきた。
「ミコトも聞いてた? 外の世界のこと、どう思う!? ……ミカサと同じ、かな」
「……」
まだ何も言っていないのに、アルミンは勝手に落ち込んだ。何故? ミカサはミカサだし、私は私だ。同じ容姿で同じ血が流れていても、私たちは別々の人間なのだ。私なりの考えもある。ただそれを言葉に、文字にして良いのか私にはわからないだけで。だけどアルミンがそれを口にするのなら。彼に促されるままに、言葉に出してみよう。声にはならないから、かわりにペンを執る。
『わたしも、見てみたい』
「! ほ、ほんとう!?」
アルミンの嬉々とした表情にうれしくなりながらも、私は考える。それが現実になるかは置いておいて、ただ。夢を見るだけなら自由だから。アルミンは本を抱き締めて、高揚して赤く染まった頬でつぶやく。
「すごいな……外の世界って、本当に広いんだなぁ……」
「……」
そんなアルミンを見つめながら、その背後でミカサがエレンの顔を殴って勝敗が決まっていた。口論の末、何か余計な一言をエレンが言ったのだろう。撃沈したエレンに気がついて、アルミンが慌ててそちらへ戻った。私もゆっくり立ち上がって、ミカサの元へ行く。
――エレンの気持ち、かんたんには変わらないみたい。
何も言わずにミカサを見ると、姉は私が言わんとしていることを理解して少しだけ気まずそうに視線を外した。
「……うん、私も、わかっている。エレンの気持ち、簡単には変わらないって」
私たちは双子だから、他の人よりは少しだけ、通じ合える。
ミカサはエレンに本当は諦めてほしいんだろう。夢を見て、外の世界へ行くということは、命を落とすということに変わりない。どれだけ強くなろうと、かつて人類が巨人に勝利したことは今までに一度も無いのだから。だからこそ、人はそれを"夢"だという。この世界のどこかにあるはずのそれを、手に入れることを不可能だと。そんなこと、あるはずがないのに。
「ミコトも、外に行きたいと言うの? ……絶対、ダメだから」
『言わないよ。ゆめは、ゆめのままだから』
そうだ。所詮それは夢でしかない。御伽噺のように、曖昧な存在として処理すべきものなのだ。エレンは、人は生まれながらに自由だというけれど。私はそうは思わない。否、思えない。こんな不完全な私は、自由などでは決してないのだから。
紙に綴った私の言葉に安心したのか、ミカサは薄っすらと笑みを浮かべた。エレンのわからずや、と小さく呟いて。
「帰ろう。エレンはもう、いい」
「……」
何を言われたのかな。お前には関係ないからほっとけよ、とか? いつものことだけれど、エレンは全く懲りない。ケンカでミカサに勝てるはずないのに。とりあえず私も火の粉は被りたくないので、ミカサの言葉に頷いてただついていった。
「エレンもミコトも、死なせたりしない……もう家族を失いたくないから。だから、調査兵団は絶対にダメ」
『わたしも』
言いたい事は他にもたくさんあったのだけれど、ただ一言だけ伝えた。壁外に出るということは、すなわち死を意味している。こんなことを言えばエレンは怒るだろうけれど、エレンのように「生きるために戦うんだ」という考えのほうが希少なのである。私は、私たちは、そんな風に強くは在れない。悔しいけれど、エレンが羨ましいと思うこともあるけれど。ただ、私たちはそれでも夢を見るだろう。幼いながらに、外の世界へと希望を馳せるのだ。
「おーい!」
「!」
「……アルミン。エレンも」
ミカサと二人でゆっくり歩いていたら、後ろからアルミンと、彼に連れられたエレンが追ってきた。ミカサに殴られたエレンは心なしかむすっとしている。
「もう、置いていくなんてひどいよ。いつの間にか二人ともいなくなっているんだもん」
「いいだろ、アルミン。ミカサなんてほっとけって!」
「……エレン」
根に持っているらしい。たぶんそれはミカサも同じで、エレンをにらみつけた。怖い。
「……、」
二人を止めるために何か言おうとして、だけど言葉が出なくて。文字を書こうにも二人ともこっちを見てくれないから意味なんかなくて。だから私は、二人のケンカを止められなくて少し後ろに下がった。二人とも怖い顔をしているから、近づけない。
「ちょ、ちょっと止めなよ二人とも! ミコトが困ってるよ」
「あ! わ、悪いなミコト」
「ごめんなさい……」
アルミンが二人をそう諌めたら、エレンもミカサも慌てたように私に謝罪する。別に謝ってほしいとは思っていないけれど、二人が仲直りしてくれたのならいい。何故かエレンもミカサも、私が困ったりしたらとても慌てるから。アルミンはそんな私たちを見て微笑ましそうに笑う。
『平気。もう、帰ろう』
「うん、そうだね。じゃあ僕は、これで……」
そう言って手を振って帰ろうとしたアルミンの服を、私は引っ張って止めた。不思議そうに振り返るアルミンに、私ではなくてエレンが言う。
「今日は俺ん家で食っていけよ!」
「え? でも……」
「ほら、ミコトもそう言ってるだろ」
エレンが自信たっぷりに言う。アルミンとミカサも私を見て、私はゆっくり頷いた。こういうときに、エレンは鋭い。私の言いたいことを、どうしてわかってしまうんだろう。だから私はエレンのことも兄弟として好きなのだ。
食事に誘われたアルミンはそれでも「おじいちゃんが、」と渋る。この間もそう言って結局一緒に食事することはなく帰ってしまったけれど、まだ私は一緒にいたいと思うのだ。自分の家ではないから抵抗はないわけではないが、エレンが言ってくれたから大丈夫だろう。
「まだ晩飯まで時間あるし、断っていけば大丈夫だろ! 行こうぜ!」
「……う、うん。ありがとう」
エレンの明るい笑顔に押し切られて、アルミンは祖父の待つ家に寄って「エレンの家でご馳走になる」ことを告げた。手土産にと祖父から少しの野菜を受け取って、粗相の無いようにとアルミンに必要の無い言葉をかけて見送ってくれた祖父に手を振ってアルミンはエレンの家へと一緒に向かう。
家までの、それほど長くはないが子供には長い坂道。先ほど収束したはずの争いを思い出したのか、どちらから仕掛けたのかは定かではないが再び軽い口論になりつつ仲良さそうに歩くエレンとミカサを微笑ましく眺めながら、私とアルミンは数歩後ろを並んで歩いていた。
「またやってるよ、あの二人……もう、しょうがないなぁ」
「……」
アルミンは困ったように私の隣でぼやいたけれど、その顔は全然しょうがなくなんてない。だってこんなにも穏やかな顔ができるのは、今が幸せだからだ。だから私は言ってやる。前を歩く二人には見えないように、ノートに薄い黒線を走らせて。こういうとき、声が出なくて良かったとさえ思う。ほんの少しだけ、だけど。
『アルミンもね』
「え?」
『本当はわかれたくないくせに、自分から言わないなんて。仕方のないひと』
拙い私の文字をしっかり心の中で読み上げて、それから少しだけ頬を赤く染めて、アルミンは言う。ばれてたんだ、と。照れ笑いを浮かべるアルミンに、私は今日一番の笑顔を見せてあげた。
『だからさそってあげたの。わたしもわかれたくなかったから』
だから、教えて。外の世界の話をもっと、もっと、もっと。もっと聴かせて。私たちに、夢と希望を与えてほしいの。あなたの言葉は、見えるはずの無い景色を見せてくれるから。
想像という、夢の中で。