01(仁王)




    「……あっ」

     教師の声を子守唄にうたたねしていた丸井の肘が、申し訳程度に机の隅に置かれていた消しゴムを外へと弾き出した。ふと覚醒したが、寝ぼけ眼で消しゴムを探すヤツの視界は、ぼんやりと宙を彷徨っていた。
     どれ、拾ってやろうか。そう珍しく親切心を出してみた俺の目の前にすっと細い腕が伸びてきて、丸井の消しゴムを拾い上げる。

    「はい、落としたよ」
    「……ん、ありがとよ」

     ぼんやりとしたまま、丸井が礼を言う。消しゴムを拾ったクラスメイトは、どういたしましてと柔らかな口調で言ってから、ぷっと吹き出して自分の頬を指さした。

    「ここ、拭いたほうがいいよ」
    「……ふぇ?」
    「あと、ついてる」

     よく見れば、丸井の口元から頬にかけて細く涎のあとが線を引いていて、そのマヌケヅラがおかしくてそれを聞いていた周りの数人が笑いを堪えていた。俺もその内のひとりだが、思いのほかツボに入って、一際大きな音を立てて吹いてしまった。斜め前の丸井が俺を振り返り、赤い顔で「仁王てめぇ」と怒りをあらわにしていたが、俺は「やめておけ」と手を振って、前を見るように示す。そこには無言のままの国語教師が立っていて、居眠りをしていた丸井は注意を受けることになったのだった。

    「くっそぉ、何で俺ばっか」
    「寝てるお前が悪いぜよ」
    「……うぐぐ」

     昼休みの終わる五分前。恨めしそうに俺を見てくる丸井に知らん顔をしたまま逆を向けば、先ほど丸井の消しゴムを拾った女子が目に入る。机に向かって、何やら真剣にシャーペンを動かしている。、と丸井の口が動く。

    「何やってんの、真剣に」
    「次、英語の課題。今日提出なのにノート忘れちゃって、それで」
    「えー、誰かに見せてもらえばいいじゃん」
    「悪いし。それに一度やってるから、そんなに時間はかからないよ」

     大丈夫、と言いながら問題を解くにふうんと適当な相槌を打って、丸井はそんなことはどうでもいいかのように腹を摩りながら尋ねた。

    「ところで、なんか食いもんねぇ? 俺腹減ってよ」
    「え、お昼ご飯食べたんじゃ」
    「食べたけど。でも足りねぇよ」
    「うーん、ごめん。何もないや……あ、」

     そういえばと鞄を開くに「何、なんかあんの?」と期待に目を輝かせる丸井。が取り出したのは、可愛らしくラッピングされた包だった。もしかして手作り? 期待か不安かよくわからないが、尋ねる丸井にはうんと頷く。

    「一年生、四時限目が調理実習だったんだって。それで、くれたのよね」

     なんだ、後輩か。そう納得して、包を受け取る。ごそごそと取り出した中身は、オーソドックスなクッキーで、少し焦げたのやら欠けたのやらが入っていた。
     美味い美味いと言いながら貪り食う丸井を横目に、は良かったと微笑んで、それから告げる。

    「じゃあ後で感想伝えてあげて。切原くんに」
    「げほ……っ! 後輩って、赤也かよっ!」
    「誰も女の子とは言ってないじゃない」

     わかりやすすぎる丸井の反応に、俺は堪えきれず吹き出してまた丸井に睨まれた。部活の時、覚えてろよ。心の声が聞こえた。
     それから程なく、午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴って、クラスメイトたちはそれぞれの席に着く。俺は仲良く並ぶ前の二席を見つめながら、それにしてもと小声で尋ねた。

    「おまんら、そんなに仲良かったんか」
    「へ?」

     クラス替えをしてから特に気にしたこともなかったが、何だかんだ丸井はから食べ物をもらったりしているし、はで、よく丸井の世話を焼いているように思える。接点など、あまり無いようなのだが。

    「ま、いろいろあってな」

     そのいろいろというのは、教師が入ってきたことで会話が中断されて教えては貰えなかった。だが、後ろからふたりの様子を見ていればまぁよくわかる。互いに互を意識し合っていて、甘酸っぱい空気を醸し出しているのが。
     相変わらず丸井は授業中寝こけていて、ああ、これでは赤也と何ら変わらないんじゃないだろうかと俺は一人ため息を吐く。テニス部は課題の提出率が悪いと教師から部長代理である真田に苦情がいくのも時間の問題だろう。だが、そんなことよりも俺は、居眠りしている丸井を微笑ましく見守っているに目を奪われる。

     なんて、幸せそうな顔しとるんじゃ。

    「何? 仁王君、どうかした?」
    「……何でもないプリッ」

     なあにそれ、変なの。
     俺の視線に気づいて不思議そうな顔をしただったが、俺が誤魔化すとそれ以上の追求はせず、小さく笑うだけだった。実は今日日直なんだけど、この様子じゃ丸井君に期待は出来そうにないわねなんて言いながら、それでも起こそうとはしない。それは彼女の優しさなのだろうが、ここは友として起こしてやるべきか悩む。いや、やはり面白いからこのままにしておこう。案の定、がっつりと深い夢の中に落ちていた丸井の「取るなよ俺のシュークリーム!!」というでかい寝言が教室中に響いて教師から説教を食らうのを、クラス中が笑った。

    「ったく、だから何で起こしてくれねんだよ」
    「だって、気持ちよさそうに寝てたから……」

     ごめんね、と少し申し訳なさそうに言うの隣で俺は知らんぷりを決め込む。丸井は、頬を朱に染めて「ったくよぉ」とそっぽを向いた。午後の授業も終わって、後は真っ直ぐに部活へ向かうだけ。今日は掃除がなくて助かった。

    「そうだ、仁王先行ってろぃ」
    「なんじゃ?」
    「俺、今日日直なんだったわ」

     日誌かかねーと。そう言った丸井に、は慌てて手を振った。

    「大丈夫だよ、私が書いて持って行くから。テニス部頑張ってるんでしょ? 行っていいよ」
    「少し遅れたって大丈夫だって。それに、に全部任せておくのは違うしな」

     掃除も手伝うから、さっさと終わらせて帰ろうぜ。そう丸井が言うと、は一瞬呆気にとられたあと、本当に嬉しそうに笑うのだった。

    「ありがとう。実は私、書くの遅いから助かる」
    「知ってる。だから、さっきの課題途中までだったんだろぃ」
    「なんでわか……あっ、見たの!?」
    「やり直し確実だなー。だから見せてもらえばいいのに」
    「提出すらしてない人に言われたくない……」
    「じゃあ、今度一緒にやろうぜ」

     そんな会話をしながら、丸井が俺に、さっさと部活へ行けと手を振った。ま、理由が理由なだけに真田も怒りはしないだろう。
     女絡みということは、今日だけは伏せといてやろうか。

    「……真田には言っておくナリ。さっさと戻ってきんしゃい」
    「おー、ありがとな」

     二人の幸せそうな顔を見ながら、俺は心の底から溜息を吐いた。
     さっさとくっつけばいいのに。

    to be continued...





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