

君の心−後編−

※ これの続き。
「……なんでいるの?」
仕事を請けてから五日後。決して難しくはなかったが、久しぶりに数ある仕事をこなして帰宅したイルミは、廊下でばったりと、思わぬ人物に出くわして目を瞬いた。元々大きな瞳が、更に見開かれる。
「知らない気配があるなって思ってはいたけど、まさかキミがいるなんてね……」
「私も、貴方が今日お帰りになるとは聞いていませんでした」
こんなことなら部屋から出るんじゃなかった、とは心の中で呟いた。心の準備もしていないのに、こうしてイルミと顔を合わせたところで何を話せば良いか解らないのだ。
「……イルミさん」
「何?」
「私、キキョウさんに婚約を破棄して頂けるようお願いしてみます」
「え。多分、無理だと思うけど」
の発言に多少は驚きはしたものの、表情ひとつ変えずにイルミは口にした。あの母親のことだ。理由を問い詰めた挙句、目の前の大人しげな彼女などすぐに言いくるめられてしまうのが目に見えている。さすがにそれは可哀想なので、暗に諦めろと言ってみるが、にも思うところがあるようで、その瞳に揺らぎはなかった。
小首を傾げたイルミは、「そんなにも俺との結婚がイヤ?」そう尋ねていた。
「……おかしな話かも、知れません。馬鹿げていると、自分でもわかってはいるのですが」
「言って」
短く話の続きを促せば、は小さく頷いてから口を開いた。
「一度くらい、恋を経験してみたいと……思って」
「……は?」
笑われると思った。何を言っているのだと、呆れられてしまうかもしれない。それでもの心は不安に押し潰されそうで、イルミのいない数日間、自分なりに考えたのだ。
政略結婚は、それが自分の役割なのだと甘んじて受け入れる。ただ、その前に女として生まれた以上は、一度でいいから燃え上がるような恋をしてみたいと、そう思った。
「いいんじゃない、俺とすれば」
「え……」
あっけらかんとイルミが言った台詞に、今度はが驚きで固まってしまった。
今、一体何と言ったのだろうか、この男は。
「だから、恋でしょ。俺じゃダメなの? 政略結婚じゃ愛情はないなんて誰が決めたの」
「え、あの、だって」
イルミが言ったのだ。相手は誰でも良かったのだと。面倒じゃない女なら、誰でも。
自分じゃなくても、良かったのだ。
「俺、キミのこと嫌いとか言ってないし。そりゃ、好きかって言われたら会ったばかりなんだからそれも違うけどさ」
「……」
「キミだって俺のこと全然わかってないでしょ。一方的に切られたら、俺だって結構傷つくんだけどなー」
「! ご、ごめんなさい……」
無表情のままのイルミは、果たして本当に傷ついているのかは不明であるが、は勢い良く頭を下げた。自分のことしか考えていなかったのは事実である。
「でもまあ、キミが何を望んでいるのかはわかった。努力はしてみる」
能面のようだと思っていた男が、わずかに表情を変えたことには釘付けになる。恋をしたことがないのは、彼も同じだったのだと知る。
「だから――」
「」
「?」
「さっきから、キミ、じゃなくて、です。ちゃんと名前で呼んでください……夫婦になるのですから」
赤い顔でそう訴えれば、頭上でイルミがふっと笑ったのがわかった。
「そうだね。……、これから宜しく」
それだけ言うとイルミは父親に呼ばれているからと去って行ってしまう。
廊下に一人残されたは、本当にこれで良かったのだろうかと小さな溜息を吐いた。
「また……ですか」
あれから幾日か過ごして、わかったことがある。
正式に籍を入れる前に、恋人らしいことをしてみようと言ったのは他ならぬイルミのほうだった。しっかり考えてくれているのだとが嬉しく思ったのも束の間、イルミと会うことがないのだ。
元々長男として仕事量が他の家族よりも多いイルミであったが、家にいることがとても少ない。その上、彼は何を勘違いしているのか仕事で家を空ける度にに高価なプレゼントを贈るようになった。そんな恋人別に望んではいない。三回目のプレゼントを断ったとき、イルミは首を傾げた。
「おかしいなあ」
聞いてたのと違う。そう小さく呟いたのが聞こえて、誰かに入れ知恵されたのだとわかったけれど、そもそもイルミは恋人とどういうことをしたいとか、そういう欲がないのかも知れない。そう思うと無性に悲しくなってきてしまって、とうとうがゾルディック家を後にしたのは、それから数日後のことだった。
「なんで勝手に出て行くわけ」
「……恋人設定なので、同居はまだ早いと思いまして」
それならせめて執事か両親にくらい言って行くべきではないのかと思ったが、母親が許可するとも思えないので致し方ないことだったのかもしれない。
仕事から帰ってきたイルミがの不在を知って、すぐさま彼女の実家を訪ねると、婚約者は整然とした態度でイルミを迎えた。
「イルミさんは、私のことが好きになれそうですか?」
「さあ、それは過ごしてみないとわからない」
「私は、貴方が誰かを好きになることはないのではないかと、思います」
何それ。
イルミは憤慨して、明らかに苛立ちを孕んだ表情で腕を組んだ。
「なんでキミに……にそんなこと言えるの? 俺だって努力しているつもりなんだけど」
「それは、わかります。けど、誰かに知恵を借りてまで恋人ごっこをする必要はありません」
きっぱりと言い放つに、イルミは黙り込む。確かにと、そういう節があったのは否めないからだ。
「……じゃあ、何してほしい?」
「え?」
「そうだよ、他の奴に頼るからわかんないんだよね。最初から本人に聞けば良かった。ねえ、は俺に何してほしい? 俺、どうしたらいい?」
長身のイルミに詰め寄られたはあまりの出来事に身を引いたが、勢いのついたイルミに腕を掴まれてしまい身動きは取れない。
「……あなたは、」
好きとか嫌いとか、そういう次元じゃないのかもしれない。
「私のことが、好きですか」
の再三の問いかけに、イルミは尚もわからないと言った。その上で、答える。
「でも、妻にするならがいいなと思うんだけど――どう?」
どう、と言われても。
困惑の色を浮かべるであったが、ひとつだけわかることがある。目の前のイルミの瞳が、自分しか映していないという事実。
「……今はわからなくてもいいから、私のことをちゃんと想ってくれますか?」
「うん、いいよ」
というよりも、想っているからのプレゼントだったのだけれど。それはには伝わるはずもない。
短く肯定の言葉をイルミが口にすれば、はそこでようやく安堵の表情を浮かべるのだった。
そんなに、だったら、とイルミの表情が明るいものへ変わっていく。
「じゃあ、かわりにの心臓を俺にくれる?」
「えっ」
「え? ……あ、違った。君の心を、俺にちょうだい」
「……」
本当にこの人と一緒になって大丈夫なのだろうか。今更ながら、不安になっただった。
だけど、
「それも誰かに入れ知恵されたの?」
声に出しながら、が嬉しそうに笑った。
End.

