

約束なんか知らない

※ これの続き。
水泳はいい。水の中での遥はいつも自由だったし、それに倣って俺も自由で在りたいと思った。昨年あいつらと一緒にリレーを泳いで、その気持ちが強くなった。気負う必要は何もなかったのだと。けど、俺が自由であろうとすればする程に、あの人は何かに縛られている気がしていた。
もう会わないと言われたから、あれきりアパートへは行っていない。そもそもあの時はどうかしていた。恋人がいるという事実を本人の口から聞けただけで良かったはずだ。諦めるために、御子柴元部長にわざわざ住所だって聞いたのに。結局俺に残ったものは、深い傷と無理やり奪った唇の温もりだけだった。
「よっ、久しぶりだなー松岡!」
「み、御子柴……部長」
「おいおい、今の部長はお前だろう」
ぶらぶらと街を歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。明るいその声は、今はあまり聞きたくはなかったと少しだけ思ったが、御子柴先輩本人には関係のないことなので自分の感情は呑み込んだ。しかし、そんな俺の考えなど知らない先輩は、相も変わらず明るい声で世間話でもするかのように口を開いた。
「そうだ松岡。お前、あいつとはどうなったんだ?」
「……は? あいつ?」
御子柴先輩は勿論、一人しかいないだろうと快活に笑う。とは上手くいっているのか? なんて、今の俺には辛すぎる言葉だ。
「嫌味ですか。俺、あの人とはもう……」
もう会いたくないと言われているのに。つい全てを言ってしまいそうになったが、御子柴先輩は察したようでそうかと呟いた後、でもなあ、と続けた。
「最近恋人と別れたと聞いたから、ついお前の想いが届いたのかと思ったんだがな」
「……今、なんて言いました?」
別れた? なんで? まさか、俺があんなことしたから……それで?
「松岡? どうし……おい!?」
突然走り出した俺を見送るしかない御子柴先輩の、呆れた声が聞こえた気がした。相変わらずだな、と。
「……どうして、いるの」
彼女はアパートの部屋にいた。インターホンを鳴らすと、間も無くしてドアが開く。相手を確認もせずに開けるなんて無用心ですよ、と言ってやると、は明らかに眉を寄せて「会わないって言ったよね?」と言った。予想はしていたが、あまり歓迎はされなかった。
「そんなの知らねーよ」
「凛!」
「なんで別れた」
はハッと息を呑む。以前この場所を俺に教えたのは御子柴部長なんだから、あの人に言ったことは俺にも伝わるって少し考えれば解ることだろ。
「俺のせい、なのか」
「ち、違う。凛は関係ないよ。関係ない、けど……」
は小さく、震えた声で言った。
「あの日から、凛の顔が頭から離れない……もう会わないって言ったのに。凛が、あんなことするから」
なんだ、やっぱり俺のせいじゃねーか。自嘲気味に笑えば、今度は何も言われなかった。まあ、俺だって半分はこうなることを期待してやったことだから決して謝ったりはしない。
「それで、別れてどうするつもりだったんだ」
「……」
忘れられないから男と別れて、そのまま俺とも会わない。なら、この先誰とも付き合わないって事か? そんなの、たまったもんじゃない。
「俺が忘れられねぇなら、俺のところに来いよ! んで、あんたはいつもそうなんだよ……!」
「凛。行けないよ……私、凛とは……」
は溢れる涙を拭いもせず、ぼたりとコンクリートの玄関に染みをつくった。
「夢を追いかける貴方を、私は縛りたくなるから」
世界に行く。オリンピックの水泳選手になるという夢は今も捨てちゃいない。けど、何かを諦めてしか手に入らないなら、そんなもの最初から要らない。
「それでも俺は、あんたがいいんだ」
この先どうなるかなんてわからない。一緒にオーストラリアに来てくれなんてことも言えない。けど、それでも心だけは繋がっていたかった。
それほどまでに、好きだから。
「……凛、本当に丸くなったね。遥君の影響かな、素直になった……」
「茶化すなよ。俺は真面目に……!」
「好きだよ」
噛み付きそうな勢いの俺に、一言、が言う。一瞬、聞き間違えかとも思ったが、彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「え……」
「凛がなんで私がいいのか、全然わかんない。女を見る目がないわね」
「うるせぇ。そんなの俺の勝手だろ」
好きだよ、ともう一度言って、唇を寄せた彼女の身体を、俺は引き寄せた。もう絶対に離してはやらないと、そう心に決めて。
「また凛がオーストラリアに行っちゃったら、今度こそは忘れちゃうかもしれないわ」
「ばーか」
そんなこと、させるわけないだろ。
「それまでに俺のこと、忘れられなくしてやるよ」
End.

