Story

    忘れるから、忘れないで





     いつしか口癖になっていた、その言葉。

    「泣かないで、凛」

     生意気で、しっかりと強い意思と野望を持っていて、そのくせ涙もろい男の子。そういえば彼は、私が卒業する日も、泣いていたっけ。その度に私は、泣かないでを繰り返す。それを聞いた凛が袖口で粗雑に涙を拭って、「泣いてねーよ」と強がってみせるのも毎度のことだ。嘘ばっかり、と軽口を言って、あの日は私も涙を流した。
     あれからまた季節が巡って、凛はきっと私のことなんて忘れているんだろうと思った。彼は最初から水泳一筋って印象だったし、私への好意なんてきっと小学生のままごとのような、幼稚なものだから。



    「なんで、ここにいるの?」

     だから、今この現実が受け入れられずに困惑して、口をついて出た。なんで? と、誰だって思うだろう。高校を卒業して以来、音沙汰なかった後輩が、大学から帰宅してアパート前に立っていれば、誰だって。
     目を丸くする私に、凛は少し言いづらそうに唇を歪めながらもごもごと呟いた。

    「御子柴部長に、聞いた。今のあんたの家」
    「御子柴君……プライバシーって言葉知らないのかしら」

     元クラスメイトを思いながら苦々しげに笑ってみせると、話を反らされた凛は少しムッとして「他に言うことは無いんですか」と言った。

    「……あるよ。凛、会いたかった」
    「……っ」

     顔を反らした凛の耳が一瞬にして、真っ赤に染まる。彼はわかりやすすぎる。よくそれで私にからかわれたのも、その反応が可愛いからだってことに、この様子では未だに気づいてなどいないのだろう。
     口元を押さえて、怒ったように眉を寄せて低く「嘘言ってんじゃねぇよ」なんて唸る凛。それが照れ隠しだというのもバレバレなのに、親友の遥君や宗介君は教えてくれないのだろうか。きっと彼らも私と一緒で、凛が可愛いくて仕方ないんだろう。

    「嘘じゃないよ。凛がいなくて、大学はつまらない」
    「じゃあ……なんで、連絡くれないんですか……」

     忙しくて、なんて言い訳は恐らく通用しない。凛は頭がいいから、何でもお見通しだろう。だけど、なんで、という思いは私も一緒なのだ。

    「それは後輩であるキミの役目じゃない? ……もっと早く、会いに来てよね……」

     そう言って、私はちらりと震える携帯電話を確認した。その瞬間、全てを理解したとばかりに凛の表情が歪んだのを見て、私まで泣きそうになった。

    「……男が、いるんですか」
    「御子柴君に聞いていたんじゃないの」
    「……噂程度で、付き合ってるやつがいるらしいってくらいに。でも、そんなの実際に確認しなきゃわかんねぇから……」

     街灯が気持ち程度に照らす薄暗い足元を見つめて、凛は頭を掻き毟った。だから、こんな夜分に訪ねてきたのか。一体いつから、私の帰りを待っていたのだろう。

    「それで、確認しに来て、わかったの?」

     意地悪な私は、凛が悲しむって解っていて棘のある言葉を浴びせた。自分で行動しなかったのは私の方なのに、全て凛のせいにして逃げた。
     早く、迎えに来て欲しかった。それは嘘じゃないけれど、でも、結局待てなかったのは私の方だ。

    「……凛、泣かないで」
    「泣いて、ねぇ……」

     凛が水泳を頑張っていたのは知っていたし、応援もしていたはずなのに。私はその裏で、水に触れていない時の凛の視線が自分に集中していたのに気づいた瞬間から、凛のことを独り占めしたくて仕方なかった。自分の感情の奥底に凛への好意を押し込めて、惨めさを嘲笑う。こんなどろどろとした気持ちで、凛の夢を奪うわけにはいかなかったからだ。

    「好きよ、凛……好き、だったの」
    「……馬鹿、野郎」

     あまり男らしくない、静かに伝うその涙を拭って、同時に彼の唇から放たれた罵声を受け入れながら私は、凛の頬にキスをした。
     好きだった。口ではそう伝えたけど、今もきっと、私は凛が好きだ。

    「彼氏が来たら、どーすんだ」
    「別に、どうも。……浮気にすらならないもの」

     もう既に終わりと決めてしまった恋は、これから始まることもない。再会と、さよならの意味を込めたキス。

    「ごめんね、凛」

     私の心が弱かったから、凛を傷つけてばかりだ。
     凛の涙はもう引いていたけれど、その代わり私の目頭が熱くなって、視界が歪む。つまらない大学生活を送って、すっかり涙も涸れていたとばかり思っていたけれど。私の涙は、凛のためにとっておいたのかもしれない。そう思えるほど、後から後から涙が溢れた。凛への申し訳なさが、私の心をしめつけていた。

    「……泣くなよ、」

     凛は昔のように私を呼び捨てで呼んだけれど、その重さは、決して昔のように軽くはない。
     凛の瞳が、胸が、全身で私を好きだと訴える。今も昔も、その思いだけは変わらずにそこにあるのに。

    「もう、会わないで……凛、お願いだから」

     こんな情けない姿を、見られたくなかった。昔のきれいな私だけを、覚えていて欲しかったのだ、凛には。
     涙でぐちゃぐちゃな私の顔を目に焼き付けて、凛は一体何を思ったのか。私には、わからない。わからないのに、

    「……わかった」
    「っ!?」

     珍しく物分りの良い凛に少しだけ驚いて顔を上げた瞬間。私を引き寄せて、凛が力強く口付ける。私が頬にしたのとは違う。唇から、酸素を全て奪われるくらいに激しく。
     なんで? 視線で訴え続けると、やがて名残惜しげに唇をはなした凛は、たった一言

    「もう、来ない」

     それだけ言って、暗い夜の道を歩き出す。引き寄せられて突き放された私の頭は、突然のことにぐるぐると目まぐるしく働いて、やがて停止する。
     "もう、来ない"? こんなに強く噛痕を残しておいて、よく言う。

     私の唇には、凛の温もりが残っている。

    End.





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