決して忘れることの無い、血の臭い。両親が伏せる真っ赤な水溜りに、私は何を考えて、思ったんだっけ。……ああそうだ、その日私は家にいた。遊び疲れて、奥の寝室で眠っていたんだ。父と母と姉の、楽しそうな笑い声をまどろみの中で遠くに聴いて、幸せに浸っていた。だけど、それも長くは続かなかった。
「早く、早く逃げなさい!!」
「……ッ!?」
突如、来客を知らせるノック音。父が扉を開ける音が聞こえた。異常な雰囲気を肌で感じて、薄らと目を開けると、もう誰の声も聞こえることはなかった。
先ほどまで笑い声が絶えなかったはずなのに、急に静まり返る我が家。まるで自分以外に誰も居ないようで、そっと今のドアを開けると視界に飛び込んできた光景に信じられないと目を見開いた。
「……!! お母さん!? お父さん!!」
動かない二人に駆け寄って、身体をゆする。
「ねぇ、おかあさ……ひっ」
ゆっくりと天井を向いた母親の瞳は、もう光を宿してはいなかった。父親もまた、動く様子はない。驚きのあまり尻餅をつくと、ぬるりと赤いものが手に触れた。
「お姉ちゃん!? お姉ちゃん、どこ――!?」
いくら呼んでも、姉の姿はなくて。冷え切った母の身体を抱きしめたまま、声もなく泣いていた。
それから少し後、父の知人である医者のイェーガー先生が尋ねて来られて、その惨状を目の当たりにして言葉を失った。一緒に来た誰かに家の周りに女の子がいないか探せと指示をして、彼は寝室の扉を開けた。そのとき初めて私は、これは夢ではないことを知ったのだ。
「君は、だね? ミカサは、お姉ちゃんはどこに?」
「……、……」
唇が震えて声を発することが出来ない。声はどうやって出すんだっけ? わからない。涙と震えは止まらないのに、頬の筋肉は、口角はつり上がったままだった。笑顔を貼り付けて、私はもう一度家に出来た血溜まりを見た。さっきまで、喋って、笑っていた肉片が転がっている。
「……! まさか、君は」
喋らない、恐怖で声の出ない私の身体をイェーガー先生が抱えて外に出た。そこには男の子が立っていて、家の周りには誰もいないことを伝えた。それはそうだ。姉のミカサは、あの男たちに攫われてしまったのだから。
「エレン、お前は町に戻っていなさい」
そう告げたが、エレンと呼ばれた男の子は返事をしなかった。そして、暫くの無言の後。踵を返して走り出した少年を見て、イェーガー先生はよしと頷いてから馬を走らせた。派遣されている憲兵のもとへ助けを求めに向かった。でもそんなの、意味がない。憲兵なんか役に立たない。今から呼びに行ったところで、助けには間に合わないだろう。
男たちのアジトへと辿り着いたとき、先ほどの少年エレンと姉のミカサが小屋の前に立っていた。血に濡れた手を、雨で洗い流そうとしていたみたいに。イェーガー先生に叱られたエレンは、それでも動じずに「あんなやつら」と吐き捨てた。人殺しの人攫いなんて、ああなって当然だ。何とも思わない。けれど、辛そうな姉を見て、駆け寄った。
両親がいなくなって、帰れる場所が無くても。まだ、一人ではないことが救いだと信じて。
「……」
「……」
お姉ちゃん。声に出そうとしたけれど、言葉にはならなかった。私の声が出ないことに気がついて、姉はぎゅっと私の肩を抱きしめた。怖いのは、二人ともおなじだった。家に一人残されて、両親と同じように、殺されてしまっていたらどうしようと、そればかり思っていた。生きていて、本当に良かった。
「……イェーガー先生」
姉のミカサが口を開く。イェーガー先生は私たちをじっと見て、次の言葉を待っていた。
「私たち、ここからどこに向かって帰ればいいの……? 寒い……私たちにはもう、帰る場所が無い……」
寒い。その言葉をきいて、動いたのはイェーガー先生ではなくて彼の息子のエレンだった。巻いていたマフラーを、私たちにぐるぐると巻いた。
「!」
「やるよ、これ。……あったかいだろ」
「……あったかい」
その様子を見ていたイェーガー先生が言う。
「ミカサ、。私たちの家で一緒に暮らそう」
「え……?」
「辛いことがたくさんあった。君たちには十分な休養が必要だ」
私たちは顔を見合わせる。家族じゃない人と家族になる。よく、わからない。黙っていると、痺れをきらせたエレンが姉の腕を引っ張った。
「ほら、早く帰ろうぜ。俺たちの家に」
「……うん、帰る……」
細く涙が、姉の頬を伝う。だけど私は、ぼんやりと、他人事のように思っていた。一緒に連れて行かれて、イェーガー家で一緒に暮らすことになってからも、私は。
(どうして声が出ないんだろう……どうして、)
まるで声の出し方を忘れてしまったよう。エレンの母、カルラさんのお手伝いで皿洗いを淡々と行いながら、ふと自分の喉に手を当ててみる。発声練習みたいに「あ」と声を出してみたつもりだったけれど、細い息がひゅうっと漏れただけだった。
「どう? お皿、洗い終わった? 」
「! ……」
掃除をしていたカルラさんが台所を覗いて尋ねる。少しびっくりしたけど、すぐに振り向いて小さく首を振る。もう少し、と。声が出ないから、私には手振り身振り、筆談くらいしか思いを伝える術がない。だからカルラさんは私におつかいは頼まないし、誰かと一緒じゃなければ外に出るのも良い顔をしない。私も姉やエレンみたいに牧拾いに行ってみたいのだけれど。
「そうだ。、あなたにお客様よ」
「?」
ちょうど最後の一枚を洗い終えて、カルラさんの言葉に玄関へと向かう。私に客なんているはずもないが、ただ一人、こんな私にも会いに来てくれる人がいた。
「おはよう、」
「……」
アルミン。口だけを動かして名前を呼ぶ。彼はエレンの親友で、よく一緒にいるところを見るけれど。エレンのいないときでも時々こうやって私に会いに来てくれる。
「どうせミカサとエレンはいないだろ? ちょっと、散歩しない?」
アルミンは優しい。中々家の外に出られない私を気遣って、気分転換に連れ出してくれる。ミカサもエレンもやさしいけれど、ときどき怖いから。姉のミカサも、エレンやエレンの両親は、いつか私に声が戻れば良いなって言う。まだ戻らないのかとも、エレンは言った。でも、アルミンは言わない。理由があって声が出ないのなら、無理に出そうとすることはないと。声を取り戻すことに躍起になるのではなくて、原因が解決すれば自然と戻るだろうと。だから、無理に考える必要などないと。そんなアルミンが、私は大好きだった。彼の言葉ひとつひとつにいつも励まされて、救われていたのを、彼はきっと気づいてはいないけれど。
「それじゃ、行こうか」
「……」
差し出された手を握って、私はやはり頷くだけだった。