月二くらいの周期で回ってくるこの役割を、とても面倒に思う生徒も少なくないのではないだろうか。今日の日直、と先生に指されるだけで、毎日本人たちからは「えーっ」「いややー」と声が上がるのを、半年ほど聞き続けてきた。けれど私は、日直の仕事は嫌いではない。せっかちな関西の人たちと比べれば、私の仕事の効率はとても悪いかもしれないけれど。
「今日、日直やな。よろしく」
「あ、うん。よろしくね」
先日席替えをして隣の席になったから、今日の日直は白石君と。
彼は先生から受け取った日誌を開くと、前のページを眺めながら「無駄だらけや」と一人突っ込みを入れていた。更に、謙也君のページを見ながら大笑い。どんな内容か気になったけれど、二列後ろの席から謙也君の視線が突き刺さるのを感じたので知らないフリをした。
一限目は国語。面倒がって挙手する生徒など今時はいないもので、よく「じゃあ日直」と言って指されるのだが、今日は当てられなかった。そのかわり、白石君が無駄のない朗読を披露していたけれど。
「白石とおる? センセが、休み時間に理科準備室から資料用意しとけゆうてたで」
左上から右下まで、無駄なく使われた黒板を何とか背伸びして消していると、クラスの子が伝言を伝えてくれた。私の届かないところを消してくれていた白石君が、「相変わらず人遣い荒いなぁ」と呟いた。
「あ、私が持ってくるから白石君、休んでていいよ」
「ちょぉ待ち。女の子に重たいもの一人で持たせるなんて絶対にあかんで」
言うが早いか、白石君は残りのチョークを消し去り、二人で理科準備室へと向かった。頼まれていた資料を持つと意外と重たくて、白石君は当然のように私の倍くらいの荷物を持った。
「ありがとう」
「かまへん」
短く返事をしただけの白石君の横顔を盗み見る。やはり彼も多少は重いのか、真剣な表情で資料の束を持つ手に力を入れなおすのを何度か繰り返した。
人に頼られることを苦に思わず、むしろ嬉々として受け入れているようにも見えるその姿が、何だか微笑ましいと思ってついつい目で追ってしまう。だから、日直と言う他の皆が嫌う仕事も喜んで引き受けるのだ。という少女は。
「あとは日誌だけ、だよね? 書いた?」
「あー、しもた。忘れとった」
机から教科書を出して鞄にしまうと、朝担任から受け取った日誌が顔を出した。人の見て笑っておいて、すっかり記入を忘れていたことに気づく。
「私書くから、白石君は部活行っていいよ」
なんて、またそんなことを言う。勿論そんなの即却下だ。日誌は一冊なので一人でしか書けないだろうが、それを片方に押し付けて知らん振りなんて出来るわけがない。しかも、相手はだ。
「自分もマネージャーやて、立場をそろそろ自覚した方がええんとちゃう?」
「……そうだけど、」
部長とマネージャーという役割の違いを思ってだろうか。歯切れの悪いに、小さく溜息が漏れる。
「ほな、さっさと終わらせて一緒に部活行けばええやろ。鍵は小石川がスペア持っとるから平気や」
「あ、うん。そっか……そうだね」
掃除が終わったら、また教室で。
そう言って、は掃除の担当区域に向かう。確か裏庭だった気がする。俺は、便所掃除だけれど。
同じクラスの謙也に日直で部活が遅れることを伝えたら、「二人っきりの教室で何すんねん」などとニヤニヤと気持ち悪かったので思い切りしばいておいた。
先に掃除が終わったのは勿論無駄のない俺のほうで、は五分ほど遅れて「ごめんね」と息切れしたまま言った。別に走ってくる必要もないのに。
すっかり人のいなくなった教室で、は自分の席に座り、俺はの前のヤツの椅子を借りて後ろ向きに座る。どっちが書く? そう尋ねるに、俺は日誌を差し出した。
「ほな、書いてもらお。の字綺麗やんな」
「え? えー、そんなことないと思うけどなぁ……」
照れて赤い顔を隠すように俯いたが可愛くて、つい見惚れる。謙遜しつつも嬉しいのだろう。可愛らしいペンケースからシャーペンを一本取り出して、日誌を開く。
日付と曜日、それから今日受けた授業内容を記入していく。
「国語……理科、と」
「三限と四限、逆や。昼前は体育やったで」
「あっ、本当だ」
間違いを指摘すれば、すぐに気づいて書き直す。その際が使用した消しゴムに、何だか見覚えがあると思って考えたら謙也と同じだった。そういえばだいぶ前に、「お近づきのしるしに」とか言って渡してたっけ。
その後、は授業の感想の欄に苦戦していた。何て書こう? 尋ねられたが、関西人はボケしかない。俺の無駄のない音読がサイコーやったやろ。決めポーズをとりながら言ってみたが、あっさり流された。この半年間で、中々高度な技を身につけたらしい。
ページをぱらぱらと捲って一通り目を通したは、やがて溜息を吐いて「参考にならない」と呟いた。「そらそうや」と、俺も言ってやる。根っからの関西人の奴らが書く日誌と、真面目なの書きたい日誌はきっと異なるのだ。
やがて、他の奴らのを参考にするのは止めたらしいはじっと日誌と睨めっこをしながらシャーペンの頭を唇に押し当てた。考えに耽るその姿が、何だか神秘的で、遠い存在のように見えた。
「……」
「…………」
カリカリ、カリカリ。シャーペンの硬い芯が紙面を黒い文字で埋めていく。ぼんやりとした視界の中でもはっきりと見えるのは、彼女の細い指先だった。
いつからだろう。そう自覚したのは。最近のことではない。恐らく、が転校してきて、同じクラスに入って、目が合ったあの瞬間から。きっと、落ちていたんだと思う。
静かな教室で、頬杖をつきながら日誌を書くの頭から指先、そして机の間から覗く足までを眺めながら、不意に
「好きやなぁ」
無意識の内、言葉が飛び出した。
「え?」
「え? ……あっ」
しまった。そう思ったが時既に遅し。つい、心の声が口をついて出てしまったのだ。
いや、今のは違うねん。必死に誤魔化そうとしたが、どうやっても誤魔化しようがない。
顔に熱が集中していく。全生徒を前にボケで滑っても、こんな恥ずかしさはないのに。
どうしよう、という思いが拭えない。返事を待つよりも、こんな状況で不本意な告白をしてしまったことに焦りを隠せずにいたが、目の前のが日誌を書く手を止めて、俯いたまま呟いた。
「……私も、好き……です」
「……!」
言った直後、上げた顔は真っ赤で、目が潤んでいる。暫くの沈黙が流れた。
夢か? これは、夢?
外から聞こえるサッカー部の声も、テニス部のラリーの音もはっきり耳に届くのに、奥に残っているのはの声だけ。
「私も好きです」。その言葉に、鳩尾の辺りから炎に包まれたような感覚に陥った。
俺、もう死んでもいいかもしれない。
はーっと息を吐いて、思い切り机に突っ伏した。ああ、恥ずかしい。
「白石君?」が心配そうに声をかける。
「……俺、今めちゃめちゃ幸せやねん。一生分の幸運を使い果たした気ぃするわ」
「そんな、大袈裟な……」
薄く微笑むは、やっぱり可愛い。この笑顔が今から俺のものかと思うと、どうしたって気持ちが舞い上がる。
「大袈裟やないで。自分、結構競争率高かってねんで」
「ええ?」
「一番危険やったんは謙也やな。スピードスターゆうてる割に恋愛事はノロマでホンマ助かったわ」
「謙也君が? 嘘だぁ」
「嘘やあらへん。……せや、明日みんなに自慢したろ。いっそのこと学校中に言いふらしたいくらいや」
「そ、それはさすがに……」
「冗談や。せぇへんよ」
軽口を叩きあって、お互いに顔を見合わせて笑う。これこそ、俺が求めていたものだった。
それから少しして、日誌がまだ途中であったことを思い出したは真剣な表情に戻ってまた机に向かった。
止まりがちになったの手を見つめながら、尋ねる。
「終わり?」
「ん、もうちょっと待って……うん、終わった」
ほな提出してくるから準備しとき。無造作に日誌を掴むと、その手を頭の後ろでぶらぶらさせながら教室を出る。きっとまだあいつら、練習している。部長の俺が練習に出ないわけにはいかないだろう。まあ、嬉しくて俺は正直練習どころではないのだけれど。
担任に日誌を提出して、部活へ向かう途中。廊下を歩きながら、俺は先ほどの告白風景を思い出して深く溜息を吐いた。
「あー、カッコ悪いなぁ」
「え?」
「もっと、ロマンチックな告白プランを考えてん。それも全部台無しや」
「……そのプランもとても気になるけど、でもいいよ。私、嬉しい」
どんなにムードを大切にしたって、必ず上手くいくとは限らない。なら、例え予期せぬイレギュラーが起きたとしても、終わりよければ全て良しというもの。だってが、こんなに嬉しそうにしているんだから。
「でも、どんな顔してみんなに会えばいいんだろ……」
「……いや、ええよ」
「?」
繋いだ手に力を込める。
「……この手も、今だけや。あいつらにはまだ、教えんでええ」
さっきは、学校中に言いふらしたいとか言っていたのに。矛盾した俺の意見にが笑う。
仕方ないやろ、人の気持ちなんてそんなもんや。何食わぬ顔でそう言い返した。
完璧も、不完全も、全部ひっくるめて俺という人間なんだ。
「今はまだ、二人だけの秘密にしとこ」
小さな秘め事に、鼓動が高鳴るのを感じた。