担任の教師に案内されるままに廊下を進んで、各教室から響いてくる笑い声に、楽しそうなところだと少し安堵する。
一年の教室を通り過ぎ、二年の渡り廊下を超え、辿りついた教室の前で「ここが今日からお前のクラスや」と言いながら教師が教室の引き戸に手をかける。その様子がどこか意を決したように思えて少々いぶかしんだが、その疑問はすぐに解消された。
教師がドアをスライドさせた瞬間、ドアの間に固定されていた黒板消しが彼の頭に落下したのだ。無論気づいていただろう教師は、避けることなく、あろう事かそのチョークの粉をたっぷり含んだ黒板消しを顔面で受けたのだった。
瞬間、クラス中にドッと笑いが起きる。その中で、首謀者なのだろう一人の生徒が腹を抱えながら指差し笑った。
「顔面で受けるとか、ホンマつまらんやっちゃなー」
「アホか、王道やっちゅーねん。って、そないなボケかましとる場合あらへん。皆席つけぇ」
定期的に漫才大会が開かれるという話も耳にしていたが、まさかこれほどとは思いもよらなかった。まさか、教師も生徒も関係なく、ところ構わずボケるなんて。これが関西の血というものなのだろうか。
「転校生の紹介や。ほれ、自己紹介しぃ」
ぴたり、笑いが止み、皆の視線が一点に集まる。ああ、何度経験してもこの空気は慣れることはない。
「あ、の……」
どこを見ていいかわからない。誰とも目を合わせられない。視線を泳がせた末、一番前の席の子と目が合った気がして慌てて反らした。
しどろもどろになりながら、ゆっくりと口を開く。
「東京からきました…… です。よろしくおねがいします」
ぺこり、頭を下げても、空気は変わらない。拍手も起きない。何だそれだけか、と落胆の色さえ伺えて、恐る恐る顔を上げれば教師からは信じられない言葉を投げかけられた。
「ほんなら何か一発芸でもしてみっか?」
「え……!?」
突然の振りに驚いて大声が出た。何だか他のクラスメイトたちも一発芸という響きに目を輝かせている。まさかこれは、本当に何かやれという意味なんだろうか。自分の性格上、それはあまりに酷なものだ。
戸惑っていると、先ほど視線が合った(気がする)男の子がスッと左手を挙げて意見を述べた。
「センセー、転校してきよったばっかでこのノリはきついんとちゃうか? さん、かわいそうやわ」
正に助け舟。教師も他の生徒達も、それもそうだと納得し、その場は事なきを得た。彼は何だか人徳があるようだ。
『東京からきました…… です。よろしくおねがいします』
かなり不安だったんだろう。震える肩が小動物のようで、どうしても助けてやらないといけない気さえしていた。外部の人間ならついていけなくて当然だ。助け舟を出したときの心底ホッとした顔が、脳裏に焼きついて離れない。
「なんや白石、どない思う?」
「どないって、何がやねん」
休み時間にトイレへ行った帰り。謙也が後ろからにやにやと近づいてきて身構える。少しどころじゃなく、気持ち悪い。ハンカチで手を拭きながらどうでも良さそうに返すが、謙也は話を続けた。
「例の転校生のことやで。お前、あーゆう子がタイプなんか?」
「タイプとかって……まだ話しすらしてへんやろ」
「ひとめぼれっちゅー話しもあるやろ? それに助け舟出しとったやろ。そこんとこ、どないやねん」
そんなことを言って、実は自分の方が気になっているというのがオチだろう。まあ無理もない。色白の肌に小柄な身体。目は大きくて気が弱そうな女の子。周りにはいないタイプだ。惹かれるヤツもいるだろう。
「お前まで乗っかるからや。ああゆう子は押したらあかん」
「おお、スマンスマン。なんや楽しそうでつい、な」
「ついやないやろ。そないやったら謙也、女の子に嫌われるで?」
「うお……モテる男の助言いうやつか?」
「……」
謙也のオーバーリアクションにノッてやる気力もなく、浅い溜息をひとつ吐く。
「とにかく、直接話してみぃひんとわからんなぁ」
「ま、そうやろな」
その後は他愛ない雑談をしながら教室へと戻る。しかしざわつく教室のドアを開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは一輪の花に群がる蜂達――ではなく、転校生をぐるりと囲むクラスメイトたちだった。
父親の仕事は何か。今までどんな学校にいたのか。好きな食べ物から好みの異性のタイプまで、四方八方から質問攻めにされて、見ていて可愛そうなくらいだ。
「……!」
視線がぶつかる。今度は気のせいじゃない。「助けて」と言れたような気がした。
咳払いをしながら、落ち着きというものを知らない奴らに言ってやる。
「あー、その辺にしときや。これからなんぼでも喋る機会はあるやろ」
「何や蔵、お前も転校生と喋りたいんとちゃうか?」
「ま、それもあるねんけどなぁ」
ドッと笑いが起きる。丁度そこでチャイムが鳴って、皆残念とばかりに席へと戻っていく。心底ホッとした表情のさんに少し気障っぽくウインクなんてしてみれば、意外にも彼女は安心したようにふと微笑んで、
「……ありがとう。二回も、助けてくれて」
蚊の鳴くような小さな声で、そう言った。
「どういたしまして」
それが転校生である彼女との、最初の会話であった。