桜が散る前




     まだ桜が散り終わる前だった。
     その日は部活も早く終わったから早々に帰路に着くはずだったのだが、明日提出の課題を教室に置き忘れていたことに気がついて、とても面倒に思いながら校舎へと足を踏み入れたのだった。
     ほとんどの部活が新入生の仮入部という期間で、本腰を入れるにはまだ早い。吹奏楽部も楽譜の配布とマウスピースのトレーニングくらいでテニス部よりも早い時間に終わったはずだ。それなのに、校舎に入るなり聞こえてきた"音"に、越前リョーマは訝しげに教室への階段を昇っていた。
     一段一段上がって行く度、耳に届く音が少しずつ近づいてくる。吹奏楽部の誰かがまだ残って練習しているのかと思ったが、聞こえてくる音は吹奏楽部のそれとは幾分か異なっていて。更には音楽室とは真逆の普通教室から聞こえてきていたことに、少しだけ緊張した空気が漂う。聞こえてくる音は、弦楽器のギターのようだった。
     ガラリ。控えめに、だが滑りの悪い教室の引き戸は大きな音を立てて開いた。

    「……!」

     ぴたりと、音が止む。
     教室の片隅。行儀悪く机に座りながら、少女は目を丸くして少年を見ていた。今まで奏でていた楽器は、華奢な身体には大きすぎるように思えた。

    「だれ?」

     静かに、少女の口が開かれる。本気で驚いているようだ。
     入学してまだ二週間ほど。クラスメイトといえど、近しい友人でなければ名前なんて覚えていないだろう。リョーマ自身、目の前の少女のことはクラスメイトとして、見覚えがある程度でしかない。

    「その席、俺のなんだけど」
    「……ああ、そう。ごめんね」

     適当に、位置が丁度良い場所を選んだのだろう。最近一度目の席替えが行われて窓際の席になったリョーマの机に、彼女は座っていた。
     リョーマが指摘しても少女は一言気持ちのこもっていない謝罪を口にしただけで、ゆっくりと立ち上がった。人が来たことで興が削がれたのか、黒いケースにギターをしまいこむ。

    「汚してはいないから、許してね」

     彼女は一言だけそう言い残し、入り口で立ち尽くしているリョーマの脇をするりと通り抜けて教室から出て行った。
     我に返ったリョーマは、当初の目的を思い出し、机の中から課題のプリントを見つけて鞄の中に入れた。別に明日登校してからやったっていいのだが、朝の時間は結構貴重なので、そんなことには使いたくないのである。

    「ん? ……何だ、これ」

     プリントをしまいながらふと足元に視線を落としたら、何か小さい物を見つけて拾い上げる。丸みを帯びた三角形のそれは、何となくではあるが見覚えがある。ギターの弦を弾くときに用いるピックだ。ギターをケースに入れる際にしまい忘れたのだろうか。冷静に振舞って出て行った彼女も、実は結構動揺していたのだと思うと不意に何だかおかしさがこみ上げてくる。

    「……変なヤツ」

     誰もいない教室で口角を上げ呟く。
     放課後の幾度目かのチャイムを聞いてから、リョーマはこの日ようやく帰路に着いた。



     そんな出会いから三日が経過した。
     国語の授業で音読する際に「」と教師に指されたことで、彼女の名字はわかった。しかし休み時間に入っても彼女は、誰か親しい友人と談笑するようなこともない。という少女を下の名前で呼ぶような友人は、いないのである。
     例えば同じ部活の堀尾が話しかけてきて、それに面倒そうに返している以外は、自分とそう変わりはないとリョーマは思う。

    「……あの、」

     放課後だった。テニス部へと向かう準備をしている最中、静かな声で話しかけられた。だ。

    「何?」

     素っ気無く返しはしたものの、何となく彼女が言いづらそうにしている理由はわかっていた。リョーマはゆっくりを左手を制服のポケットに忍ばせた。ソレが確かにあることを確認し、を真っ直ぐに見る。
     人と関わるのは苦手そうだ。足元に落とした視線を泳がせながら「えーっと、」と口ごもる。中々次の言葉に繋がらないの前に、ポケットからゆっくりと左手を抜き出して開いた。

    「……あのさ、これ」
    「! あっ、そう、それ! 落としたピック」

     驚きと安堵が入り混じったような表情。三日前に薄暗い教室で見たときは、もう少し違う印象だったのだけれど。
     リョーマはリョーマで、意地悪をしていたのでも悪戯だったわけでもなく、最初は名前も知らず、話しかけるタイミングを逃す内についうっかり忘れていたのだ。
     互いに他人に興味がある方でもなく、恐らくはこの落し物が無ければこうして会話することもなかっただろう。

    「ごめん。あの日拾って、持ってた」
    「そうなの? いや、でも持っててくれて有難う。捨てられたんじゃないかって、少し焦ってたんだ」

     ピックを受け取って、リョーマを責めるでもなく素直に礼を言う。それから少し考えて、

    「えーっと、なんだっけ……君」
    「?」

     顎に手を当てて本気で考える。名前のことだろうか、と思い名乗ろうとしたが、その瞬間彼女は思い出したというように明るい顔で言うのだった。

    「そう、王子サマ!」
    「……は?」
    「どっか、運動部にすごい新入生が入ったって噂は聞いてたんだけど。キミのことでしょ、王子サマ」

     本人は、リョーマがテニス部であるとまでは知らないらしい。ただひたすらに"王子サマ"と連呼されていることに、リョーマはやや憤慨した様子で告げる。

    「俺は別に、王子じゃないし。越前リョーマっていう名前があるんだけど」
    「そっか、そういう名前なんだね。王子サマ」
    「だから……」

     わざとなのか、天然なのか。恐らくは前者だろう。無駄と思いつつ再度主張のために口を開けば、

    「」

     リョーマの主張を遮って、凛とした声が響く。もう一度彼女が言う。「」
     それが彼女の名前なのだと、改めて認識したリョーマはもう既に自分の名前を訂正する余地は与えられていなかった。

    「それじゃ王子、部活頑張ってね」

     あと、拾ってくれてありがとう。
     もう一度彼女が礼を口にするので、案外悪いやつではないのだけれどと思い、それと同時に溜息しか出てこなかった。

    「……だから、俺は王子じゃないって」

     それ以前に、テニス部ってことくらい覚えとけ。
     もう既に教室を後にしていたには、越前リョーマ少年の嘆きが届くことはなかった。

    to be continued...





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