嫌いじゃない




     ちくり、指先の痛みに現実へと引き戻される。左手人差し指の先から流れた赤い液体を見つめながら、短い溜息を吐いた。らしくないね、隣から友人がささやく。

    「ここのところ、ぼーっとしすぎ。ちゃんと寝てる?」
    「寝てる、よ。でも……うん、疲れているのかも」

     手芸室で居残って、明後日の日曜日に地域のバザーに出展するための商品を仕上げる。レースと刺繍をあしらったコースターやポーチに、部長なんかは気合を入れて子供用の衣類まで自作していた。
     自分で設定した個数に到達するまで、あと五つほど仕上げなければならない。目標に届かなかったらペナルティが課せられるのは、この学校の風習なのだろうか。それとも運動部の影響か。とにかく、このペースでどうやって、あと二日で完成させられるのだろうか。

    「もう諦めれば楽なのに」
    「そういうわけには……」

     ただ、計画をきちんと立てなかったのは自分なのだ。否、計画は立てていたが、それを狂わす誤算がそこにはあって。
     糸を縫いつけながら、気の遠くなる作業に頭が痛くなる。

    「お、なんだ手芸部。まだ残ってたのか?」
    「丸井先輩」

     がらり、勢いよく開かれた。常勝を目指すテニス部が毎日遅くまで残っているのは知っていたが、彼らもまさか文化部が残っているとは思わなかったのだろう。驚いた顔の丸井先輩が入室してくる。

    「幸村君からも聞いてたけどよ、大変そうだな。手伝ってやろうか?」
    「……いえ、大丈夫です……」

     なんてな、裁縫なんてできねーんだけど。
     丸井先輩は悪びれもせずに笑う。やや疲労感が残る私には、その冗談に乾いた笑いしか返すことが出来ず、その背後でばつが悪そうにして立っている切原に視線を送った。視線が合うと、彼はびくりと肩を震わせて目を反らす。申し訳なく思っているのだろうか。しかし、私だって別に、切原を責め立るつもりはない。健康管理が出来ていない自分の責任なのだし、それを言い訳にはしたくないのだ。

    「テニス部はもう終わったんですか?」
    「ああ、大会も近いしな。根詰めても仕方ないしさ。他の連中も帰ったぜ」

     私の作業を待ってくれていた友人が丸井先輩に問いかけて返ってきた答えに、私は「だからか」と嘆息する。先日、切原が小テストで悪い点を取って居残り授業をさせられていたのを、泣きつかれて手伝う羽目になったのだ。そのときはただ、他の先輩方も困るだろうなとか、ぼんやりとしか思っていなかったけれど。きっと切原も切羽詰っていたのだろう。テニスがプレイできなきゃ、彼がここにいる意味は無いに等しい。

    「お前らはまだ帰んねーの?」
    「あ、私はただの付き添いなので。の制作が終わったら一緒に帰りますよ」
    「外、もう暗いぜ? 流石に女子二人は危ねーだろぃ」

     窓の外を見る。室内の明りで気づかなかったが、確かに空は真っ暗だ。これまで付き合わせた友人に申し訳なくなって、「帰っていいよ」と伝える。しかし、丸井先輩は「だから、そうじゃねーって」と頭を掻いた。

    「それじゃお前一人になるじゃん……」

     それから、後ろで未だ一言も発さずにいる切原を振り返って「赤也」と名前を呼んだ。

    「お前、責任持って送ってやれよ」
    「……は、はい」
    「え。……本当に、気を遣わなくていいですから」

     何しろ切原となんて、私としてはだいぶ気まずい。そんな私の心情を知ってか知らずにか、丸井先輩は呆れたように言う。

    「馬鹿。お前に何かあったら、幸村君に顔向けできねーだろぃ」

     確かに、テニス部のメンバーはそういった考えがあるのかもしれない。しかし、私は兄の所有物でもないし、別個の人間として考えてもらいたいものだ。テニス部部長の兄がいるからこそ、テニス部の人たちが話しかけてくれたりするのも事実なのだけれど。

    「じゃ、俺達は帰ろうぜ」
    「あ、すみません。……じゃあね、。気をつけて帰ってね」
    「そっちもね。こんな時間まで、ありがとう」

     手伝ってくれた友人に礼を告げて、手芸室を出て行く二人を見送る。喋る人が居なくなってしんとした室内で、切原はようやく動いた。立っているのも疲れたのかもしれない。少し離れた場所の椅子を机から下ろして、座ったのだ。

    「……悪かったな」
    「え?」
    「俺のせい、なんだろ。作品、間に合わないって……」

     本当に、ずっとそんなことを考えていたのか。申し訳ないと項垂れる切原に、私は静かに首を振る、別に、そんなことは思っていない。

    「そんなの、どうってことないわ。自分の時間配分も間違ってただけ。情け無いことにね」
    「そんなこと、ねーよ。幸村はすげぇ。頭良いし、器用だし……俺なんかとは、違って」

     珍しく自虐的だと思った。いつも自信たっぷりで……テニスの試合は見たこと無いけれど、切原はとても強いと聞いているのに。

    「切原は、さ」
    「え?」
    「悪いと思ってるから……罪悪感で、待っててくれてるの?」

     私は自分で何が聞きたいのか、それすらもわからないままそう口にした。でも、嫌だったのだ。それを肯定されてしまったら、なぜかとても嫌だと思った。

    「……いや。それもあるけど、でも、そうじゃなくて……」
    「……」
    「一緒に帰れたら、とは、思った。丸井先輩に感謝するくらい……」

     切原は良くも悪くも正直だ。それを聞いて、私が嫌悪感を抱くと思ったのだろう彼は、全てを話した後でしゅんと項垂れてしまった。でも、そんな切原に何て声をかければいいのか、私は理解していた。

    「……帰ろう」

     縫いかけのコースターを、危なくないよう針を留めて鞄にしまう。切原は「え?」と顔を上げて呆けていた。

    「やっていかなくて、いいの? ……間に合わねーんだろ?」
    「いいよ。どうせ終わんないから。そろそろ片付けないと先生にも怒られるし。切原までとばっちり食らっちゃうしね」

     幸い明日は土曜日で休みだし、根詰めてやれば何とかなるだろう。本当は、今日頑張って終わらせて、明日はゆっくりしたかったのだけど。

    「近くまででいいから、送ってってくれる?」

     本当は暗くて、帰り道不安だったの。そう伝えれば、切原は途端に嬉しそうな顔で椅子を蹴って立ち上がった。

    「も、勿論っ、家まで送る!!」

     意外と純情な切原が、私はそう、決して嫌いではないのだ。

    to be continued...





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