中学生にもなれば、恋のひとつやふたつ、してもおかしくはない。例えば美人でグラマーな保健医に憧れを抱いてみたり、なんていう中学男子も少なくは無いだろう。ウチの保健医は男だけれど。
俺も先輩達から馬鹿だ馬鹿だと言われているが、ゲームや寝ることにしか興味がない単純なヤツだと思われているなら心外だ。何故なら、俺だって年頃の男子として、気になっている子はいるのだから。
だが、しかし。
「何か用? 切原」
「……えーっと」
笑わない、そして難攻不落な女で有名な、幸村。中学二年、俺と同い年。そして、我が立海大付属中テニス部の最強部長、幸村精市の妹である。無論、最初から部長の妹と知っていたわけではない。あれはただの偶然だったのだ。
入学式で初っ端から居眠りで担任から目をつけられた俺に助け舟を出してくれたのが、(名前で呼んだら本人には怒られるけど)だった。サンキュ。照れ隠しにそれだけ言ったら、薄ら微笑んで「どういたしまして」って、その反則過ぎる微笑みにあっと言う間に落ちてしまった。その後だ。テニス部に入部を決めて、幸村という苗字に驚愕したのは。
「センセーが、呼んでた。……そんだけ」
「そう。ありがと」
話しかける勇気も持てず、ただ用件のみを口にする。は業務連絡を受けただけなので無表情に聞き流す。笑った顔は、あの日以来一度も見ていない。
「なあ、……幸村」
立ち去ろうとしたを思わず呼び止める。危うく名前を呼びそうになったが気づいちゃいないだろう。
何? 足を止めて面倒そうに振り返る。特別な用事があったわけじゃないけれど、折角話しかけたのに、このまま別れるのは勿体無い気もして、何とか話題を探す。探したけれど、中々見つかるものでもない。
やがて、
「何で、笑わねんだ?」
なんて、俺は最悪な質問を投げかける羽目になった。口を滑らせてから気づいたってもう遅い。はじっと無表情に俺を見て、ひとつ嘆息。呆れられた? ビクついている俺をよそに、は僅かに口を開いた。べつに、と。
「楽しくもないのに、笑えない……。切原は、いいね。いつも楽しそう」
「……楽しそう? って、俺が?」
は小さく頷いて、「それじゃ先生が呼んでるから」と歩いていった。楽しそうって、俺が?
「そりゃお前、赤也。馬鹿にされてんだよ」
「はぁ?」
「それしか考えられんじゃろ。幸村の妹は秀才じゃからの」
「だからって何であいつが俺を馬鹿にするんすか!」
「ゲーム好きで、授業中居眠りばっかりして。しかも英語はいつも赤点ギリギリ」
「うっ」
「そんな切原クンに、学年一の優等生がなびくとは到底思えんのぅ」
「うぅ……っ」
相談する相手を間違えた。ユニフォームに着替えている最中、ふと日中あったことを話せば、丸井先輩と仁王先輩がにやついた顔でそんなことを言った。もう、助言ですらない。
他愛もない話で盛り上がっていたら、いつの間にか開始時間を過ぎていたらしい。部室の入り口に、ゆらりと黒い影が立っていた。
「何だか楽しそうだね。俺も混ぜてくれるかな?」
「げっ、幸村君……」
「その反応は傷つくな、ブン太。赤也も、相談なら俺にすればいいのに」
絶対イヤっす!
咄嗟に声を上げれば、幸村部長は楽しそうに笑った。この人は、丸井先輩や仁王先輩たち以上に楽しんでる。
誰が好き好んで、気になっている子の相談事を、あろうことか彼女の実兄にするのか。
だがしかし、気になることは確かにあった。
「部長……幸村、俺のこと、何か言ってました?」
「赤也の? いや、あいつの口から聞いたことはないなぁ」
やっぱりそうか。わかってはいたけれど、それでも落胆する。部活前にこんなこと聞くんじゃなかったと思いながら、そういえばもう部活の開始時間は過ぎているはずなのにいつもの怒声が聞こえてこないことに疑問を感じる。
「あれ……真田副部長、いないんすか?」
「ああ。真田は委員会で遅れるって。だから、今日はノーカウントにしておいてあげるよ」
「幸村部長……」
「でも、次はないから。覚悟しておくんだね」
「は……はいっ」
笑顔のはずなのに、その背後にブリザードを見た。先ほど俺をからかって笑っていた先輩二人も凍り付いて震えているのを、心の底でザマーミロと呟いた。俺ってやっぱり心が狭いんだな。
黒い笑顔の部長に促されるままにグラウンドに走り、他の部員に混じり柔軟を行なう。けれど俺は、今日は真面目に取り組む気にはなれなかった。
「……あれ?」
前屈運動の最中、ふと顔を上げれば、委員会で遅れると言っていた真田副部長が幸村部長に頭を下げているところだった。委員会があるのだから仕方のないことだと思うが、そこが副部長らしいといえばらしい。だが俺が気になるのはそこではなくて、
「幸村……?」
無論、部長ではない。妹の方である。彼女が真田副部長と一緒にいるところを見て、胸中がざわついた。変な感じだ。
更に、兄である幸村部長と一言二言会話を交わした幸村は、薄っすらとその唇に微笑を湛えたのだ。入学式のあの日以来、俺が見たくても見ることの無かった微笑み。ああ、やっぱり兄の前では普通に笑うんだな。そう思うとどうも遣る瀬無かったが、彼女は更に、俺に打撃を与えた。
「……!!」
部長に、兄に向けていた笑顔を、そのまま真田副部長へと向けたのだ。
第一、おかしいと思っていたんだ。彼女の所属している部活は今日は休みのはずなのに、どうしてまだいるのか。委員会がある真田副部長と一緒に居るのか。そこで、俺は彼女の所属している委員会を思い出した。俺が大嫌いな、副部長がいる風紀委員だ。
気づかないフリをしていたくて、それでも目に入ってしまう。目で追ってしまうのだからどうしようもない。彼女を追いかけるたびに、知りたくないことまで気づいてしまうのだ。幸村は、真田副部長が好きなんだって。
「はぁ」
「切原?」
思わず吐いた溜息に怪訝な顔をした柔軟を組んでいた同級生に一言なんでもないと告げて、俺はもう一度部長たちのいるフェンスの向こうを眺めた。
黒くない笑みを浮かべる幸村部長と、穏やかに微笑む真田副部長。その二人の前で萎縮するどころか、幸せそうに笑う想い人の姿に、向こう側は違う世界のようだと思った。
彼女にとって俺は、其の他大勢の同級生に過ぎないのだろう。
また溜息が漏れた。