最初は違ったはずだ。特別出席番号が近かったわけでもなく、初めて着いた席では目に留まることもなかった。
あれはいつだっただろうか。親睦を深めるために小まめに席替えを催していたお祭り好きのクラスの波に呑まれて、何度目かの席替えを行った。後ろの席であれば誰と隣になってもいいのだけれどと思っていた私は、運良く一番後ろの更に窓際という誰もが羨む席を引き当てた。角の席というのはなんだか不思議な安心感がある。あまり人との関わりが得意ではない私にとって、その孤立した席はとても救いのような気さえしていた。けれど、彼はそんな私に話しかけてきたのだ。
「いいなー、窓際」
「……!」
「へへ。隣、よろしく!」
ふわふわの猫っ毛。怪我が多いのか、いつも頬に絆創膏を貼っている元気な男の子。確か、彼はテニス部だったはずだ。
名前は、えーと、何だったっけ。
「もしかして名前覚えてない? もう入学して二ヶ月も経つのに!」
「……ごめん」
「いや、ダイジョーブ。俺は菊丸英二だよん」
「私は――」
「さんでしょ?」
さん。にこにことそんな風に名前を当てられて、思わず呆けてしまう。クラスメイトの名前くらいもう覚えてるよ、なんてさも当然のように言われて、自分が普通ではないような気がしてきた。まあ、他人に興味が無いのだから覚えられるはずがないのも当然なのだが。
驚いて口を閉ざした私に、菊丸は目を丸くして慌て始めた。
「もしかして一人が好き……とか? 俺、迷惑だった!?」
「え? あ、ううん……そんなことないよ」
その百面相が面白くて、つい柄にもなく「よろしく」なんて手を差し出してしまった。
彼はまたすぐ笑顔になって、握手に応えてくれた。
一人が好き? ってよく言われるけれど、実際そんな人間はいない。一人でいいなんて強がりだ。私はただ人との関わり方がわからなくて、それが他の人から見れば「冷めてる」とか「気取ってる」なんて風に思われてしまうのだ。
「自分から話しかけたりとか、苦手なの……口下手だから、ごめんね。楽しい話、何も出来なくて。でも、嬉しいよ」
「……そっか! なら、俺と友達になろうよ。」
会う人みんな友達みたいな、そんな天真爛漫な菊丸。友達になろうと言ってくれたことが嬉しくて、あまり深く考えずに頷いた。
「ありがとう。これからよろしく」
菊丸は深く、それはそれはとても嬉しそうに。にゃははと猫みたいに笑った。ぽかぽかと、日向ぼっこをしたみたいに温かな気持ちになる。
ようやく友人が出来た私は、そうはいってもこれまでと特別変わらない生活を送った。登下校は一人だし、移動教室も、休み時間もあまり変わらない。いくら菊丸が私の友人になってくれたといっても、彼は友人が多いのだ。私には彼一人だけでも、彼にとっては大勢のクラスメイトの一人で。楽しそうな休み時間を邪魔するわけにはいかなくて、一人静かに過ごす。時々私にも話題を振ってくれるけれど、面白い答えなんか返せなくて、むしろ冷たく突き放すような言い方しか出来ない私に、菊丸ではなく周囲の視線が突き刺さる。やっぱりさんて冷たい人。だって待って、私だって言いたくて言っているわけではないのに。
数日後、あんなにも安易に友達になるなんて言ってしまったことに少し後悔しながら、移動教室で早めの時間に廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「やあ、さん」
「! 大石……」
大石とは小学校が一緒で、その頃から私にはあまり仲良しの友達はいなかったけれど、レクリエーションや学校行事で余りがちな私のことを考えてくれて、誰にでも平等に接してくれたのが大石だった。とても優しくて、彼の存在には少なからず救われていたのだ。
中学でクラスが分かれてから、彼の存在がどれだけ大きなものだったか思い知った。
「新しいクラスでは上手くやっているかい?」
「えっと……友達になってくれた子はいるんだけど、」
へぇ! どんな人?
自分のことのように嬉しそうに目を輝かせる大石に、つい笑みが漏れる。菊丸って人。確か、大石と同じテニス部だったと思うけど。答えると、大石は目を丸くして「そうなんだ」と小さく言った。その後に俺、と言葉が続く。
「その菊丸くんと、ダブルスを組むことになったんだ」
「……そうなの?」
「うん。何だか面白い偶然だね」
優しい二人は、きっと良いペアになるだろう。なんて思いながら、誰よりも先に理科室へと足を向ける。それから数十秒しか経っていないのにも関わらず、菊丸がやってきた。クラスの人と話していると思ったのだけれど、彼は私の姿を見つけると嬉しそうに笑いながら近づいてきた。理科の実験では席が自由で、彼は私の許可もとらずに隣の席に座る。
「さっき、廊下で大石と何か喋ってた?」
「え?」
「さんが他の人と話してるの、珍しいなーと思って。しかもクラス違うじゃん?」
深い意味は無いのだろう。ただ、素直に疑問を口にした菊丸に、大石とは小学校からの知り合いであることを話した。
「へー。やっぱり良いヤツなんだ、大石って」
「そうなの。だから二人がダブルスを組むって聞いて、とても合ってると思ったよ」
「合ってる、かな?」
「私はそう、思うけど」
ただ本音を言っただけなのに、菊丸は嬉しそうににっこりと笑う。ありがとう。その笑顔が、無意識に人を惹き付けるんだろうなと思って。でも、私はそんなに可愛くないんだ。
ガラリと、教室のドアが勢い良く開いたかと思うと数名の生徒がぞろぞろと入室してきた。もうそんな時間か。
「何だ菊丸、もう来てたのか」
「と二人きりで何やってんだよお前!」
中学生独特のノリというか、何というか。思ったとおりの周りの反応に、恥ずかしさが込み上げてくる。
「……話、してただけだから」
ガタン。席を立って、菊丸から離れた場所に席を変えた。一瞬だけしんと嫌な空気になってしまったけれど、今更取り繕うことも出来ない私のかわりに菊丸がフォローしてくれて、その後はいつも通りの教室となった。けれど、もうそれから私は菊丸と二人で話すことなんて出来なかった。
ああ、何て私、可愛くないんだろう。
一年生が終わって、二年のクラス替えが発表されたとき。また菊丸と同じクラスだと知って、嬉しいような気まずいような、変な思いで教室に入ったのを覚えている。忘れもしない。
誰よりも先に教室に入った私は自由席の一番後ろの窓際に座った。今年も、なるべく人と関わりたくない。そう思いながら机に突っ伏して眠ったフリをしていた私の隣に、人が座った。ふっと笑われた気配がして少しだけ顔を上げたら、そこには嬉しそうに笑った菊丸の姿があった。
「また同じクラスだね。よろしくにゃー」
わざと明るい声で、猫みたいに喋る菊丸に、何だか深く考えるのも馬鹿らしくて、おかしくなって笑みが漏れた。
「……よろしく」
今年こそは、もう少し近づいてみたいと思うのは嘘じゃない。目の前の彼に、それが許されているのだと錯覚する。