乾先輩の練習メニューはいつも容赦ない。
「はぁ……くそっ」
無論弱音を吐いたりなんかしないが、毎日毎日背後で乾汁をチラつかされて寒気が止まない。
練習を途中で放棄したことは一度だってないし、これからも意地でもやり遂げてやろうと思っている。だが、流石に今日は疲れた。あたりはもう薄暗く、足が重い。
そんな中、
「にゃあ」
「!?」
塀の上で、小さな猫が高い声で鳴いた。首輪はしていないが野良猫にしては毛並みが良い。
キョロキョロと周りを見渡して、誰もいないことを確認してから、指を差し出して「チチチ」と音を出して呼んでみる。人馴れしていて警戒心が薄いのか、猫はすぐに近寄ってきた。可愛い。擦り寄ってきて、俺の足に頭を擦りつけるその仕草に一人悶えていると、
「猫、好きなの?」
「!?」
背後から声をかけられて肩が跳ね上がる。声をかけられるまで全く気づかなかったのは気配がなかったからではなく、ただ単に俺が猫に夢中になっていたからだろう。
立っていたのは、学校帰りの女子中学生。制服は俺と同じ青学のもので、恐らく学年も同じだろう。顔に、見覚えがあったからだ。
「海堂薫くん、だよね。同じクラスの」
「……ああ。アンタは――」
向こうは俺の名前を知っているらしいが、他人に興味などない俺は正直女子の名前など覚えていない。
「だよ。ねぇ、猫好きなの?」
「……」
似合わないと馬鹿にされたような気がしてギロリと睨みつけるが、クラスメイトらしい女――は全く動じることなく「可愛いよね、猫」と言って俺の傍らまで歩いてくると、じゃれていた猫を抱き上げた。いい所を邪魔されて少し苛立つ俺に、は楽しそうに笑いながらこう告げた。
「この子、うちの子なんだ」
「! ……そう、なのか」
「うん」
なら、仕方ないな。そう吐き捨てるように言いながら立ち上がる。俺はを見下ろし、対照的に向こうは俺を見上げる形になるが、表情は変わらずに笑顔のままだ。ふと、言いたくもない疑問が口をついて出た。
「怖く、ないのか」
「え?」
「俺のことが……怖くねぇのかよ」
どうして、と。目を丸くして聞き返される。本気でわからない様子のに、こんな相手は初めてで、どうしていいかわからなくなる。何故、こんな奴がクラスにいることを今まで知らずにいたんだろう。
「こんな時間まで部活、遅いのね」
「……自主トレだ。本来の部活動はとっくに終わっている」
「そう」
また短く返される。本来ならこのまま別れるのだが、珍しく話を続ける気になった自分に驚きを隠せない。
「お前もだろう」
「え?」
「この時間まで制服でウロついてんだ。お前も何か部活やってんだろ」
そんな風に口にすれば、彼女は少しだけ困ったように笑って、
「私は部活には入ってないんだ。今日遅いのはたまたまなの。……散歩、してただけだから」
そう答えた。下校から今の時間までは大分時間があるなとは思ったが、本人が言いたくない様子なのでそれ以上の詮索はしない。
は抱きかかえた猫の顎を指先で撫でながら、俺に背を向ける。
「あまり無理はしないようにね。寝不足が続くと、怖い顔がもっと怖くなっちゃうよ?」
「!! 怖いんじゃねぇか!」
先ほど怖くないと言っていた人物の発言とは思えず、実際はやはり怖い顔と思われていたことに少なからずショックを受けてそう叫んだ。
しかしは全く怯むことなく、相変わらず楽しそうに笑うのだった。
「あははは、私じゃなくて。みんなに怖がられるの、本当は嫌なんでしょ?」
「!」
確かにその通りだ。俺は、この顔のせいでクラスの連中からも恐れられている。別に悪いことをしているわけではないのに。
目の前のという女は、俺の何を知っているのかはわからないが、今までのそういった連中とは違うようだ。
「またね、薫くん」
「……ああ、また、明日な」
は猫を抱いて、暗がりに消えていく。女をこんな時間一人で行かせて良いものかと迷ったが、しかし流石に会ったばかりで気が引けてしまった俺は、小さく挨拶を返しただけだった。
また明日。
この何気ない一言が、俺の学園生活を大きく左右する事になるとは、この時は思ってもいなかった。