Story

    おまじない





     消毒液の臭いに咽返り、吐き気がする。宛がわれた個室では特にそうだ。誰もいないからこそ余計に、いろいろな考えが巡りめぐって、悔しい気持ちも遣る瀬無さも全てを吐き出せずに呑み込もうとして、また消毒液の臭いが混じった空気と一緒に吸い込んで、盛大に咽込んだ。少し、外の空気を吸いに行こうか。面会時間も過ぎて、今日はきっともう誰も来ないから。
     赤みが差す空に、月が、ほんの少しだけ出ている。あまり出歩くと看護師がうるさいから、物音を極力立てないようにして車椅子を自力操作してロビーに出ると、自分よりもずっと高い硝子窓越しに、視界一杯の薄明が広がった。

    「……」

     静かに、自分でも無意識の内に嘆息する。はあ、と小さく吐き出した息は、静かな院内にはやや大きく響く。瞬間、傍らの黒いロビーソファからカタンと音がした。咄嗟に左を向くと、人影が見える。すっかり誰もいないと思っていたのに、と思ったがそれは相手も同じで、驚いた顔をしてこちらを見ていた。
     年は、同じくらい。でも少し年下だろうか。あどけない顔をした少女だ。薄暗くてよく見えないが、どうやら物音の正体は足元に転がっている松葉杖のようだった。ロビーソファに少女が座っているところから、立てかけていた杖が驚いた拍子に倒れてしまったのだろう。

    「あ、ごめん」

     人が居たの、気がづかなかったよ。
     正直にそう述べれば、彼女は強張った表情を次第に和らげ、ホッと安堵した様子で呟いた。

    「良かった……先生かと、思った」
    「君も、病室を抜け出してきたクチかい?」

     おどけて言えば、ゆっくりと頷かれる。そして照れくさそうに、「気分転換をしたくて……」と呟いた。俺と同じだねと言えば、どちらともなく笑みが零れる。

    「本当は中庭にでも出られれば良いんだけどね」
    「でも、付き添いが必要なの……車椅子なんて、イヤ」

     床に転がった杖を、もう片方の、右手に持った杖でつつきながら面白く無さそうに彼女は言った。それにはとても同感だ。

    「ここには、長いの?」
    「二ヵ月半かな」
    「……結構、なるんだね」

     そうでしょう? なんて笑う横顔は、何だかとても寂しそうに見える。それはそうだろう。二週を過ぎたばかりの俺にとっても、息が詰まるほど苦しいんだから。

    「でも、そろそろ戻らなくちゃね。巡視に来ちゃうから。今日の夜勤の人、うるさいのよ」
    「……ふふ。そうだね」

     さすが、病院生活が長いだけあるなと思いながらも松葉杖を上手に使って立ち上がる彼女の背中を見た。杖によって猫背になった背中。けれど、悲壮感は感じさせないくらいに真っ直ぐに立っていた。

    「ねぇ」

     声をかけ、振り向いた彼女に、告げる。

    「君の名前は? 俺は、幸村。幸村精市」

     ただの患者同士だけれど、何故だかとても気になって、名前を尋ねた。
     彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑をもって応えてくれた。

    「です。よろしくね、幸村君」





     それから彼女、は度々幸村精市の病室を訪ねた。昼間には担当の看護師が付き添うこととなっていたが、夜、見回りに気づかれないようにこっそりと各々の病室を抜け出してはロビーでの密会も増えていた。
     何度目かに会ったロビーで、車椅子に座る精市と窓から覗く夕焼けを交互に見ながらはいつも通りのソファに座りながらぽつりと呟くように疑問を口にした。

    「車椅子、重くない?」
    「え?」
    「珍しい病気だって聞いたよ。ここに来ていて大丈夫なの」

     ああと精市は頷いた。まだ症状は軽い方なのだ。確かにいつ悪化するともわからないが、病室にいては気が滅入るばかりだから此処に来ることは自分にとっても良い気分転換となるのも事実で。君が気にすることはないよと言ってやるが、彼女はあまり腑に落ちないといった様子で唸るばかりだった。

    「治らない病気ではないらしいからね。大丈夫さ……きっとね」

     ゆるく微笑んで、精市は自分の手を眺める。足よりはまだ、動く。病室に持ってきているテニスラケットもまだ握れる。けれど、一週間、一ヵ月後には、どうなるかわからない。もしかしたら、足も手も動かなくなって、更には身体を起こすことも出来なくなるかもしれないのだ。そう考えるとぞっとする。一瞬にして背筋が凍って、震えが止まらない。

    「……ッ」
    「だいじょうぶ、じゃないでしょう」

     の細く力強い指先が、車椅子へと伸びる。そして、精市の握った拳に触れた。優しく、解くように。

    「怖いのはね、みんな一緒なんじゃないかなって思うの」
    「」
    「幸村君は治るよ。そしてもう一度、テニスコートに立てる日が来るよ、絶対に」

     おまじない。
     そう言っての手のひらが精市の拳を包み込んだ。自分よりも小さいはずの手に包まれて、不思議と安心感を得た。その瞬間零れた涙に戸惑いを覚える。こんな姿、部員には絶対に見せられないなと自嘲に似た笑みを浮かべながら、精市はまだ動く手で静かに涙を拭った。
     はそんな精市の様子を満足げに見つめながら、事故で使い物にならなくなった自分の足を松葉杖で軽く叩いた。

    「私も頑張るから、貴方も頑張って。この間お見舞いに来た真田君も言ってたみたいに。幸……精市は強いんだから!」

     強く在ろうとして、一人で全てを抱え込んだ。頂点に立つ者として、弱い姿は見せられないと。けれど、目の前に居るこの少女は、今のままの自分を、弱い幸村精市を全て受け入れてくれる。それがたまらなく嬉しくて、気づけば震えはすっかり止まっていた。

    「うん。そうだね……一緒に、頑張ろうか」

     それから精市は手術を受けることを決め、はリハビリを懸命に行った。もう一度、もう一度。そうお互いに励ましあって、希望をつないで。

    「精市、手術、がんばってね」

     少しずつ、の様子がおかしいことに精市は気がついていた。リハビリを続ければ歩けるようにはなる。そう考えれば、手術が成功するかわからない自分よりも、先にこの病棟を卒業できるのは彼女の方なのに。の笑顔が微妙に強張っているのがわかって、そんな風に送り出されても嬉しくなんかないと精市は手術の前日に、彼女の病室へ訪れた。いつもはが訪ねて来るか、ロビーで待ち合わせて会うかのどちらかであったため、精市が訪ねるというのはこれが初めてのことだった。無理を言って車椅子を押してくれた看護師に時間を貰って、後で迎えに来るからとだけ言って二人きりにしてくれた彼女に心の中で礼を言う。

    「、俺に何か隠してる?」
    「何もないよ。なんで?」
    「は絶対に治るって、そう言ってくれた。その言葉で俺も希望が持てたから、手術を受けるって決めたんだ。だけど、何でかな? 応援してくれているはずのの顔が、全然笑ってるように見えないんだ」
    「……」

     どこか、憎しみさえも感じられて、それが自分へ向けられたものでないにしろ、今の精市には荷が重過ぎるのだ。
     言葉を失ったに、精市の脳裏には酷く絶望的な結論が浮かび上がる。言いたくない。けれど、はっきりさせなくては前に進めないと感じて、意を決して言葉を口にする。

    「……もしかして、足、治らないのか?」
    「っ、違う!」

     即座に告げられた否定の言葉に内心ホッとしつつ、じゃあ何で? 真っ直ぐに見つめながら問いかけた。

    「治るよ。ちゃんとリハビリして、私はもう一度自分で歩けるようになるの」

     は何度も口にした言葉を並べる。絶対に治る。リハビリを頑張る。もう一度、自分の足で立って歩く。
     それらは何の偽りもなかった。だからこそ、その次に発せられた彼女の言葉は、精市を大きく揺さぶったのだ。

    「でも……ダメなんだって」
    「何が、ダメって……?」
    「足が治って、普通に生活することは出来るけど。でも、」

     もう、コースを走ることはできないんだって。
     無造作にベッドに置かれた二本の松葉杖を忌々しげに見つめ、消え入りそうな声では言った。
     陸上で短距離走を担当していた彼女は、もう大会に出て記録を残すことは出来ないのだ。

    「だから私、羨ましかった。もう一度コートに立てる精市が羨ましくて、妬ましくて、私もまた走りたいって……思ってたの」
    「」

     心臓が握り潰されそうなほど痛む。明日に手術を控えているというのに、これでは成功したとしてもラケットを握ることなんてできない。
     自分の背中を押してくれていた彼女の首を、逆に絞めていたなんて思わなかった。精市は、悔しさに拳をきつく握った。
    「でも、違うの」精市の心情を察してか、は静かに言葉を紡ぐ。

    「悔しさと同じくらい、私は、私の分まで精市に頑張ってほしいと思ってる」
    「!」
    「だから、ねぇお願い。テニスを諦めないで」

     精市の握り締めた拳を、の弱々しい手のひらが優しく包み込む。おまじない。そう告げられた瞬間に、後悔とか謝罪とか、彼女に対する一切の感情がリセットされた気がした。
     ただ、もう一度コートに立つ。結局それだけが自分の全てなのだ。そして、彼女の。

    「明日、手術なんだ」
    「うん」
    「部のみんなは、大会の真っ只中で、きっと見舞いには来られないだろうけど」
    「私がいるよ」
    「……絶対、全国大会には間に合わせてみせるよ」
    「がんばれ」

     ラケットを握って、コートに立って、王者の意地を見せてやる。
     笑顔に余裕が出てきた精市に、も小さく微笑む。張り付いた笑顔ではなく、紛れもないそれは心からの。

    「私もね、リハビリがんばるから」
    「ああ」
    「そしたら、精市の試合、応援に行くわ」

     だから、負けないでね。
     二人の脳裏には、コートでラリーを続ける精市と、それを見つめるの姿がありありと浮かぶ。
     どちらともなく握った手のぬくもりが、二人を強く結んだ。

    End.





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