咲き始めたばかりの花びらを、あと数日後には散って目に留まらないそれらを無情にも踏み潰して歩くんだろうな、などとぼんやり考える。
薄紅の花弁に誘われるように並木道を歩きはじめると、フェンスの奥で誰かが私の名前を呼んだ。
ねえ、なんて甘えた声で。
「もう、帰るんだ」
「ええ」
「なんで、まだ鐘なったばっかじゃん」
「用事が無いもの」
元々帰宅部の私には、この校内に残っている意味などない。目の前に面白く無さそうに立ち尽くしているテニス部の少年は、「見て行かないの」と拗ねたようにつぶやいた。興味も、ないもの。当然のようにそう答える。
「海堂先輩の幼馴染でしょ、あんた。応援していけばいいのに」
なんて可愛い誘い文句だろうと、面白くてつい噴出して笑ってしまったが、彼にとっては全く面白味などなくて。何故笑われているかも理解できていない彼は帽子を深く被りなおして「もういい」とそっぽを向いてしまった。ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの。
「薫ちゃんに応援なんかいらないよ。そんなに深い仲でも、ないしね」
彼は努力型だから。応援など無くても、勝利はきっと自分で手に入れることが出来るのだし。
そういったニュアンスでやんわりと断る。けれどもやはり納得は出来ていないご様子。あっそ、じゃあ行けば。そんな風に突き放されて、何だかおかしい。押してダメなら引いてみろっていう、菊丸さんあたりの入れ知恵だろうか。かなり解りやすい言動に、あえて引っかかってみたいと思う私は恐らく末期。
「ねえ、越前君」
「……?」
名前を呼んだら、顔を少し上げて私を見る視線とぶつかった。鋭くて、矢で射られたような感覚に陥るその視線が私は出会った時から嫌いじゃない。生意気そうな子だとは思ったし、実際にその通りだったけれど。
「桜、もう咲きそうだよ」
「……で?」
「満開になったら、一緒に見に行こうか」
そう誘ったら、彼は目を見開くと同時に手にしていたラケットを地面に落とした。そんなに驚かなくても、いいのに。
「嫌だった?」
「そんなこと、ない」
「じゃあ、行こうか。もちろん、二人でね」
二人で、というところを強調したら、彼は緊張した面持ちで「うん」と頷いた。本当に可愛いな。
「今日は帰るよ、私」
「結局帰るんだ?」
「うん、帰る。暫く立ち直れそうに無いもの」
そう言って無理やり笑ってみた。彼は特に突っ込むことは無かったけれど、そうだねと一応理解は示してくれたよう。
あの人のいないこの空間にいることは、今の私にはできないのだ。
「越前君」
「……何、」
先輩。彼が小さく呼んでくれた名前に、ぎゅっと胸が苦しくなる。
踵を返して数歩進んだ背中に、フェンス越しで越前君の視線が突き刺さる。締め付けるような胸の奥、必死に声を絞り出す。
「いつかきっと、乗り越えられるときがくるのかな」
「……」
「それまで君は、待っていてくれるのかな」
「愚問だね」
当たり前だなんて、そんな永遠みたいなことは絶対に存在しないのに。
そんな簡単な気持ちじゃなかった。割り切れるほど大人でもない、まだ子どもなんだ。だけど、喚くほど幼くもなりきれない。中途半端すぎる思いに蹴りをつけて前へ進みたい。その時まだ、越前君が思っていてくれるなら。受け入れてくれるなら。
「その時は君の試合を見に行くよ」
「……それって、来年?」
「さあ。少なくとも桜が散るまでは、無理かもね」
一体いつになるのか、私にはわからない。
あの人の言ったとおり、君が青学の柱となれるくらい大きくなったら、だろうか。
「薫ちゃんにも言っておいてよ。残像に負けるなって」
「……うぃっす」
私を置いていったあの人なんて知らない。夢ばかり追いかけるあの人なんて、もう追いかけない。
だけど、やっぱりすぐに切り替えられるほど大人じゃないから。
「……せめて桜が散るまでは、」
「わかったよ」
だから、待ってるって言ってるでしょ。
震える背中に、彼の一言がひどく優しく突き刺さる。
「そんなに後悔するなら、告白すれば良かったのに」
「……」
「きっと、部長も先輩のこと好きだったよ」
越前君の悪意のない嘘が、酷く心地よい痛みを帯びる。
優しくて、切なくて、涙がとまらなかった。
「ありがとう、」
うそつき。
でも今はその嘘が優しいから。今日だけは許してあげる。