Story

    アルコールの魔法





    「」
    「……」
    「、起きろ」

     名前を呼んでも反応しない。聞こえてくるのは少しの寝息と、うわ言のような声だけ。

    「、もう出ないと終電、無くなる」

     散らばった酎ハイの空き缶をビニール袋に回収しつつ、もう一度声をかける。が、やはり彼女が起きることはない。
     そもそも、どうして今日に限っては俺の家で飲みたいなんて思ったんだろう。普段であれば、純太の家や適当な居酒屋に呼び出されることはあったが、俺やのどちらかの家で二人で飲むなんて事は滅多に無いことだった(全く無いわけでも無かったが)。

    「お疲れはじめ、ちょっと付き合ってよ」

     コンビニの袋を腕に引っ提げて俺の家を訪れたは、笑ってはいたけれどどこか違和感があった。俺とは違うタイプだが彼女も心の内に溜め込んでしまう性分なので、恐らくは仕事のストレスだったりもするんだろう。俺は純太と違って相談に乗ってやることが出来ないから、それならせめて気が済むまで付き合ってやろうと思い、何も考えずに家に上げたのが間違いだったのだ。それはよく考えなくてもわかることなのに。怒りに任せて酒を呷れば、いつも以上に酔いが回ることなど。

     時刻は夜の十一時を回っていて、そろそろ家を出なければ帰る手段が無くなってしまう。まさか家に泊めるわけにもいかないので、俺は途方に暮れていた。

    「……、」

     肩を揺すろうと手を伸ばしたら、不意にその手を彼女に握られる。驚いて反射的に引っ込めようとすれば、更に力を込められてしまい、俺はそのまま固まった。力任せに手を引けば、力の差を考えればすぐに解放されるだろうけれど、何だかそれは出来なかった。
     俺とは、友達だ。高校から大学も一緒で、進路が別れた純太の代わりに(というのも変な話だが)人と関わるのが苦手な俺の近くに居てくれた。他の連中を交えて街に繰り出したり、大学のサークルでも続けたロードの応援にも来てくれた。大切な友達。それなのに、

    「、起きろ。……起きてくれ、頼むから」

     それなのに、こんな、こんな気持ちになるなんてダメだ。

    「……っ」

     声をかけても肩を揺すっても全く起きる気配の無いに、俺は時計を見た。さっきから、何度も何度も秒刻みに確認している。刻一刻と終電の時間が迫っている中、時計を見た俺の視界に、開いたドアの隙間から覗く寝室が映る。何、考えてるんだろう、俺。

    「ん……」
    「っ! ?」

     俺の下で小さく身じろいだに、起きたのかと思って顔を覗き込むが、目は瞑ったままだった。どうしよう。まだ、今ならまだ急げば間に合うかも知れない。早く目覚めてくれなければ、取り返しのつかないことをしてしまいそうで、俺は、との関係を壊したくはなくて。だから、早く起きてくれ。

    「……はじめ」

     名前を呼ばれてハッとする。それは寝言のようで、ただ呼ばれただけなのに握られたままの手からじわじわと熱が上がっていく。指先から腕を伝って首、頬、額。果ては頭の先までも沸騰しそうなくらいに熱くなって、今度こそ慌てて手を引っ込めた。
     何度目かわからないくらいに時計を確認すれば、もう終電の発車時刻を五分も過ぎていた。

    「……」

     これでは起こしたところでもう意味がない。俺は溜め息を零して、彼女の体に客人用の布団を掛けた。本当ならベッドに運んでやりたいところだが、それをしたらきっと俺の理性が保てないことは目に見えていたし、かと言ってを床に寝かせておいて俺がベッドに行くわけにもいかず、ソファの上に身を投げて天井を見上げる。
     明日、早朝に彼女を自宅に送り届けよう。俺はそんなに飲んでいないから、それほど経たずに酒は抜けてくれるだろう。約小一時間、何だかドッと疲れた俺は、目を閉じてすぐに睡魔に飲まれていった。

     どれだけの時間眠っていただろう。薄ぼんやりした意識の中で、微かな甘い匂いが香ってくる。それと同時にアルコールの独特の匂いが混じって眉をしかめる。混濁した意識が浮上してくると、俺は自分の唇に何かが触れたのを感じて目を開いた。

    「……あ」
    「っ!?」

     薄紅に頬を染めて、すぐ近くにあるの顔。垂れた長い髪が、俺の頬にかかってくすぐったい。だけど、それよりも俺に衝撃を与えたのは、今し方、微睡みの中で俺の唇に触れていた柔らかなそれ。

    「な、んで……」

     やっとの思いでそれだけ呟くと、アルコールが残っているであろう彼女は紅潮した頬と潤んだ瞳を俺に向けて、縋るように口にした。

    「やっぱり私には、魅力がない?」
    「……え」
    「わたし、本当はずっと起きてた」

     のよく透る声が、俺の鼓膜を震わせる。起きてた、狸寝入りのその理由を考えれば、導き出される答えは一つしかない。

    「終電逃したのだってわざとだし、私ははじめと……そういう関係にだって、なりたかった」

     俺の反応など待たずに一気に喋ったは、今度は涙で瞳を潤ませる。泣くなと手を伸ばしたかったけれど、あまりの事実に俺は固まったまま動けずにいた。

    「会社のストレスとか別に無いし、はじめが私をただの友達としか見てないって知ってるよ。だけど、私はずっと、高校の頃からはじめが好きだった」

     彼女は今までの関係を壊してでも、先に進みたかったのだ。臆病な俺とは違って、行動に起こしたのだ。

    「わかる? はじめ」

     あまりにも近い距離にいるに心臓が鳴りっぱなしで、起き上がれずにいる俺のことなど無視して彼女はソファに上がってくる。

    「女にも下心くらいあるんだよ」

     俺の胸に手を置いて見下ろしてくるはひどく扇状的に見えて、俺はゴクリと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
     手を伸ばせば届く距離にあって、手放したくないから触れることすら躊躇った。今までは本当に「ただの友達」。だけど今、夜の魔法にかけられて美しく艶やかな彼女を、放っておくなんて出来なくて。

    「……っ」
    「!」

     勢いよく上体を起こせば、はバランスを崩してよろめき、床に片足をついてソファから下りた。そんな彼女の細い腕を強く掴んで、長い前髪の隙間から見つめる。

    「は、はじめ」

     が、こんなにも鈍感で自分勝手な俺のことを想ってくれてるなんて知らなかった。だけどだって、俺のことについてまだ知らないことは沢山あるはずだ。

    「自分に魅力ないって……俺がどんな思いでいたと思ってるんだ」

     理性なんてすぐ飛ぶ。ゆっくりと床にを押し倒しながら、ぼんやりと考える。男は好きな女じゃなくても抱けるなんて言うし、そもそも俺は本当にを良き友人だと信じて疑わなかった。そんな相手を、こうして組み敷く。最低だなと自嘲を浮かべる俺の内心など知る由もない彼女は、目を瞬きながら「……本当に?」そう訊いてきた。その主語のない問いかけの意味するところは、俺ものことが好きだったと思われているということだろうか。だとすれば答えは否だ。

    「俺はを、異性と認識はしてても恋愛対象として見たことは一度もない」
    「!」

     正直なのは、俺の長所であり短所だと昔純太にもにも言われたことがある。だからこそ彼女にはわかるだろう。俺が本心から、口にしているということ。

    「でも、」

     酔った勢いとは恐ろしい。が、酒の力を借りようとした理由がよくわかる。

    「今、に欲情してるのは、事実」

     最低だと、再び頭の中で自分をなじる。純粋に俺に恋をしてくれていたであろう彼女を、良き友人であり続けたいと願っていた存在の彼女を、俺自身が汚そうとしている。じっとりと汗がにじむ手のひらの熱を受けながら、が掠れた声を発した。

    「それでも、いいから……」
    「!?」
    「今度から、はじめの恋愛対象に私も入れて」

     嬉しい、とが言う。そうやって笑みを浮かべる彼女の目尻から涙が線を引いて、俺はもう耐えきれず、覆い被さるように口づけた。背中に回されたの手が震えていて、それは嬉しいからか怖いからなのかは最早愛欲にまみれた脳内では判別がつかない。ただただ、今はそれほど飲んでもいない酒のせいにして、目の前のを欲しいがままに貪って。

    「」

     どうせもう、今までと同じとか、友達には戻れないんだから。

    「、」

     それでも俺はと離れたくはなくて。とても傲慢で自分勝手なやつなんだけど、それでもが俺を選んでくれるって言うなら。

    「……はじ、め」
    「。……俺――」

     目が覚めたら、彼女の望む言葉を云える気がした。

    End.





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