背筋が凍る、というのはこういうことなのだろうか。今目の前にある現実に、俺はなす術なく立ち尽くしていた。
「……っ」
体育の授業中、足を挫いて眉間にシワを寄せる女子を、愕然と見下ろす。保健委員が休みであったので、最も近くにいてその様を目撃していた俺が体育教師から指名され、保健室に連れて行くことになった。肩を貸そうとしたが、身長の違いから肩が組めるはずもなく断念し、それならばと抱き上げてやろうとすれば何故か真っ赤な顔で睨まれてしまう。「大丈夫」と言った彼女の言葉を信用し、俺はひょこひょこと足を引きずって歩くクラスメイトの後ろについてゆっくり歩いた。
保健室の扉に「外出中」の札が下げられていることを確認して中に入ると、望月はひとりで歩いて行って、薬棚から湿布を拝借して椅子に腰掛ける。
「本当に大丈夫なのか、望月」
「しつこいなあ、大丈夫だって」
「だが、腫れている」
湿布を貼るために靴下を下げた望月の足首に視線を落とし、俺は言う。
先ほど見た時には赤くなっているだけだったそこは、今では青紫に変色して俺から見ても痛そうだった。それでも顔色ひとつ変えずに「大丈夫」と言う彼女を俺は心の底から強いと思ったし、はっきりとした思いではなかったが、好意を寄せていたのは事実だった。自転車部の主将として恋愛にうつつを抜かしている場合ではなかったので、この気持ちを誰かに打ち明けたことはない。新開にもだ。俺から彼女に近づくつもりなど、最初からなかったのだ。
しかし彼女、望月が転倒した場所に偶然俺が居合わせたのではない。今日の体育内容である持久走でトラックを周回していた俺の前を、彼女が走っていた。近づき過ぎないよう、しかし無意識のうちに彼女を目で追っていた俺は、知らず知らずに走るペースを落としていたようだ。そんな時、足がもつれて体勢を崩した望月を、俺は助けてやれたはずなのに手を差し伸べてやることが出来なかった。あの一瞬、躊躇ったことを今とても後悔している。
クラスメイトの望月莉星は、陸上競技部に所属していた。俺達自転車競技部とは似て非なるものであるが、しかし運動部として通ずるものがある。
「その足では、部活は難しいな」
申し訳無さを抱きつつも口にすれば、望月は腫れた足から視線を逸らし、口を開く。
「別に、大した記録は持ってないし」
そう吐き捨てた望月だが、俺はその時の彼女の気持ちを汲み取ってやることが出来なかった。ただ言葉の意味をそのまま受け取って、馬鹿正直にも彼女の欲していない言葉を口にしてしまう。
「己を信じて努力を続けていれば何も問題は無いだろう」
努力だとか、頑張るだとか、普段当たり前のように俺達が続けていることを、中学から陸上部の彼女がしていない訳がない。失言をしたということを理解していなかった俺を、望月は冷たい目で睨んだ。
「……そんなこと、言われなくてもずっとやってきた」
それでも才能の有無は存在していて、努力ではどうにもならないことを、彼女は身を持って知っていた。
「この高校に入って、中学のときとは全然違う……みんな速くて、才能あってさ。私だって努力してないわけじゃないのに」
「……」
次第にトーンダウンしていった望月の声は、最後には消え入りそうに震えていた。それから、「福富はいいよね」と、視線が俺に向けられる。
「福富は才能あって、努力もしてて、敵なしで。私とは違うんだ」
努力していても才能が無い者は、どうしようもないのだと、彼女は嘲笑する。痛みを感じていないような顔で腫れた足を撫でながら、望月はこうも続ける。
「尊敬できて、羨ましくて、憎らしいよ。私はきっと、ずっと福富が嫌いだった」
面と向かってそんなことを言われたのは初めてで、荒北をして鉄仮面と言わしめる俺の表情が変わることはなかったが、内心とても戸惑った。部の連中は主将として慕ってくれているものの、他では避けられたり、怖がられることがほとんどだった俺を前にして「嫌い」と言い切る望月莉星という女は、やはり強いのだと思う。
「だが、俺はお前を嫌ってはいない」
これもまた本心から告げる。好きだと口にするには俺達の間には距離がありすぎて、しかし嫌いと言われたくらいで諦めたり傷つくほど、俺の心は繊細ではない。
一度失言してしまったことで、もう彼女に対する励ましの言葉を口にするのは憚られるが、それでも何か行動しなければ、俺はこの先ずっと彼女に嫌われたままなのだろう。
尚も睨んでくる望月だったが、俺は気にしていないふりをして、まだ貼られていなかった湿布を彼女の手から奪った。
「ちょっと、なに……っ?」
急な俺の行動に、望月が困惑を顔に浮かべる。俺は湿布の裏面にあるビニールを剥がし、床に膝をついて彼女の足に触れる。
「っ!」
痛みがないわけがない。こんなにも腫れているのに、恐らくは俺を前にして強がっているだけなのだろう。色の変わった肌に、冷湿布を貼ってやれば、その冷たさに望月の体がびくりと震えた。
「何で、」
「お前は強い」
「!?」
周囲に比べて才能が無いと打ちひしがれながらも努力し続ける望月に、痛みを声にしない彼女に、今もなお俺は惹かれていて、嫌われていても良いとすら思える。
「お前の足が治らなければ、俺はもう、お前の走る姿を見ることが出来ない」
誰かが評価しなくてもいい。大会で良い成績を残せなくても良い。王者箱学としてあるまじき考えだったが、今このとき、望月に対してだけは、当てはまらなかった。
「俺は、もう少しお前の陸上が見たい」
凛と強く、颯爽とレーンを駆けるその姿を、見ていたい。
「福富は馬鹿だね」
嫌いの次は馬鹿と言われて、俺は跪いたまま望月を見上げた。先ほど同様に冷たい視線を想像していた俺は、彼女の表情に目を見開く。
「こんなの、すぐ治るに決まってるのに」
さっき言ったのは嘘だよ、ごめんね。
強がりな彼女は、微笑みながらもそんな嘘を吐いた。