Story

    失うまでの短い時間




    ※ 弱虫ペダル夢企画「Lovely chance Marry me? 」様に提出させて頂いた作品です。


     いらっしゃい。その声が聞きたくて、今日も足を向ける。

     自宅から決して近くはないパン屋へと足繁く通う。高校の頃から、時々は親友の手嶋純太と一緒に行くことがあったその場所。卒業してからは暫く足を伸ばすことはなかったが、去年久方ぶりに顔を出してから、また通うようになった。自分は米よりパン派だし、それがあの人の家だというのだから俺にしてみれば当然のことだった。理由ならそれだけで十分だ。他意はない。そう自分に言い聞かせ、今日も足を踏み入れる。

    「おう、また来たのか青八木」
    「田所さん。……はい、久しぶりに食べてから、病み付きになってしまって」
    「そりゃあ、うちのパンはどれも絶品だからな!」

     追加で焼き上がったばかりのパンを運んでいたらしい田所さんが、自動ドアの開く音で顔をこちらへ向けて嬉しそうに出迎えてくれた。
     田所パン屋は、高校時代に自転車競技部で一番世話になった田所さんの実家だ。卒業してから家業を継いだことは知っているが、俺が会いに来ているのは正直な話、田所さんではなくて。

    「そうですよねぇ、美味しいよね、ここのパン」
    「……」

     レジカウンターに顔を出したのは、田所パン屋で働くという女性。二十半ばらしく、大学に通う俺よりもいくつか年上だ。
     さんは三年前からここ田所パン屋で働いている。いらっしゃいませ、と向けられた営業スマイルが、輝いて見えた。完全な一目惚れだった。まさか俺が、と思ったが、そういうのは理由など関係なく訪れる。恋ってのはそういうもんだぜ青八木、と昔純太が言っていた言葉を思い出す。
     勿論俺は純太のようにコミュニケーション能力が高いわけじゃない。高校までの俺を知っている者は昔よりは喋るようになったと口にするが、純太と大学が離れた以上はそれは仕方のないことだし、だからといって彼女を食事に誘うとかそんな勇気はなかった。どこまでいっても、俺は俺でしかない。
     さんの言葉に頷くことで同意して、俺はパンを選ぶフリをしてちらりと彼女の顔を盗み見た。すると、目が合う。吃驚してすぐに反らすが、考えれば当たり前のことである。彼女は店員で、俺は客なのだから。そこには何の感情もないのだ。

    「……これで」
    「いつも、たくさん買ってくれてありがとう」

     トレイに山ほど詰まれたパンを慣れた手つきで袋に入れながら、さんが礼を口にした。昔ほどロードに乗らなくなった現在、これ以上身体を鍛えることに意味はないのだが、膨れた胃袋ではもう昔のように少量の食事では満足できなくなっていた。それにここのパンは本当に美味いし、更に先ほどの焼き立てパンの匂いがいい感じに鼻腔をくすぐる。

    「そういや青八木、手嶋とは連絡取ってんのか?」
    「……まあ、それなりに」
    「そうか。懐かしいな、時間ってのはあっという間だな!」

     豪快に笑う田所さんに、俺もさんもその通りだと同意した。時間の経過は、昔思っていたよりもずっと早かった。

    「私も高校とか大学時代が懐かしくなる時がありますよ。電車で学生さん見かけると、若いなあって思いますね」
    「おいおい、なんか年寄りくさい台詞だな!」
    「それは、迅さんや青八木くんより、年食ってますし」

     ねえ、と今度は俺の方を向いて同意を求めるさん。それに、俺は何と答えていいのかわからない。彼女が俺や田所さんよりも年上なのはわかっているが、そうやって本人の口から聞くと、何だかずっと遠くに感じてしまう。ああ、どれだけ大人になったところで、彼女の瞳に俺が映る日は無いのだと。

    「……それじゃ、俺はこれで」
    「ありがとうございました。またいらしてくださいね!」

     会計を済ませて店を出る。通いつめたおかげか、さんは俺の好みを大分把握していた。今日はタイミング良く焼き上がり時刻に間に合ったが、そうでない日は俺の求めているパンがあとどれくらいで焼き上がるのか、こちらが口を開く前に教えてくれたりする。それはとても有難いことだが、その度に思う。俺は、あの人のことを何も知らない。という名前と、年上であること。調理パンよりも菓子パン派、特にチョココロネが好きということくらい。彼女は田所さんと働いていて、高校時代の俺のこととか、チーム二人の手嶋純太の話とか、「迅さんに聞いたんだけど」って話を振ってくる。ずるい、と思う。いや、そう思うこと自体が子供なのか。



     帰宅して、久しぶりに電話をかける。あいつはしょっちゅう携帯を気にしているから、電話に気付かないなんてことは先ずない。
     二回目のコールで、カチャリとノイズ交じりの音がする。多分携帯をいじっているところに電話がかかってきて驚いたんだろう。電話向こうの声は少し慌てていた。

    『もしもし、一?』
    「……久しぶり、純太」

     ああ、久しぶりだな。純太が答える。実に二ヶ月振りの電話だった。高校時代は毎日一緒に居た俺達チーム二人が、大学で離れるなんて思わなかったと卒業前、後輩達には言われた。俺も純太もきっとそうだ。互いに傍に居るのが当たり前だったから、こうして口にすると何だか違和感がある。純太に久しぶり、なんて笑える。

    「今、大丈夫だったか。かけ直した方がいいか」
    『突然だったから驚いただけだよ。一からかけてくるなんて珍しいからな』

     どうかしたか? 純太の言葉に、俺はふと逡巡する。話す内容を考えていなかった。だって、俺が田所パン屋に通っているということは純太には言っていないのだから。ただ、こういうとき純太なら、どうするんだろう。マネジメントが下手な俺に代わってたくさんのことを考えてくれていた純太なら。そう思うと、通話ボタンを押していた。

    「……あのさ、純太」

     俺は掻い摘んで、話をした。純太に恋愛相談をするなんて何だか照れ臭くて、いつも以上に説明下手になってしまったが、純太は最後まで真剣に聞いてくれた。相変わらずいい奴だ。
     去年からだと伝えると純太は勿論驚いていた。今年に入ってからも何度か連絡を取っていたのに、俺は一切その話をしなかったのだから。どうしたら進展するのかわからない。ストレートにそう告げると、純太はうーんと考えてから

    『今度、俺も一緒に行こうか?』

     そう言った。一瞬、俺も頼もうかと思ってしまったが、ぐっと堪えて断った。

    「……いや、大丈夫だ」

     こればかりは、純太に代弁してもらうことは出来ない。

    『田所さんに相談とかは?』
    「……親身になってはくれるだろうけど、さん本人にバレそうだ。勘良さそうだし」
    『そうか。田所さんなら口は堅いから大丈夫だと思ったんだけどな』

     その点では俺も心配はしていない。ただ、一緒に仕事をしている以上は絶対なんてことはないだろう。何かの拍子で、知られてしまうかもしれない。第三者から漏れることだけは避けたかった。
     どうしたらいいだろうか。本気で悩む俺に、純太は電話口で彼女を誘う口実を何パターンか一緒に考えてくれた。それなりに遊んでいる純太が考えてくれた口実は、俺が実践できるかは置いておいて、心強かった。

    「ありがとう純太」
    『いいってことよ! 頑張れよ、青八木一!』

     電話口で頷いて、互いにまたなと言って通話を切った。



     それから三日後、純太と一緒に考えた――というかほとんど純太が言っていた言葉を走り書きのメモに写しただけなのだが――誘い文句を、店へと向かう道中に何度も確認した。口下手な俺が本当に誘えるか? 柄にも無く緊張する。目的地に着き、パン屋の前で足を止めて深く深呼吸をする。戦場へ赴く兵隊の如く、自動ドアをくぐる。

    「いらっしゃい、青八木くん」
    「……」

     こくりと頷いて、俺はいつものようにパンを選んだ。会計時、ここからが勝負。レジへとトレイを持って行き、会計を済ませる。緊張のし過ぎで俯いたまま、彼女の顔を見ることができなかった。だけど、頑張れ青八木一。純太の激励を思い出し、いざ口を開こうと顔を上げれば、レジを挟んだ向こうでさんが困った顔をして俺を真っ直ぐに見つめていた。

    「あの、ね。青八木君」

     さんが何か言いた気に口を開くから、俺は豆鉄砲を食らう。すっかり拍子抜けしてしまって、言おうとしていた言葉が頭から消えた。だけど、それ以上にさんが口にした言葉に、俺は絶望の淵へと落とされることになる。

    「常連さんだから、青八木君には伝えておこうと思って……」
    「?」
    「わたし、お店辞めるかも知れないの」
    「!!」

     え、と息を呑んだ。一瞬にして、決意が吹き飛ぶ。何故? 三年間も勤めてきて、どうして今更、という思いが拭えない。

    「今度、お見合いすることになってね」

     石で後頭部を殴られたような衝撃が走る。お見合いなんて、現実的じゃないと思ってた。だけどそれは男の俺にしてみればの話で、二十半ばの女性にとってはそうではないのだろう。

    「親戚の勧めなんだけど、無下には出来なくて。相手側の意向でね、結婚したら、家庭に入って欲しいって」

     ほら、私もいい年でしょう?
     困ったように笑うさんに、俺は何と声をかけていいかわからない。この状況でデートに誘うことなんか出来るわけがない。

    「そうしたらやっぱり続けられないでしょう? 青八木君とも会えなくなっちゃうから、常連には伝えた方がいいって迅さんが」

     特定の相手がいないからお見合い。年齢的な話は妙にリアルで、俺じゃ届かないのかなとか悲しいことを考えた。折角純太が協力してくれて、後押ししてくれたのに。全部無駄になるんだろうか。

    「そういえば、青八木君も何か言おうとしてた?」
    「……っ」

     何か言いかけたわけじゃない。言葉を発したわけじゃなかったのに、さんはそう尋ねた。やっぱり、彼女もよく人を観察しているのだろう。勘が良さそうだという俺の考えは外れていなかった。だけど、今それを聞かれても、もう既に俺の決意なんて砕け散っていて。

    「な、んでも……」

     ない。そうやって、無かったフリをする。いつ辞めるのとか、そんな話は聞きたくなかった。
     何でもないわけ、ないだろ。

    「さん」
    「え?」

     初めて名前を呼んだ。知っていても、苗字すら口に出して呼んだことは一度もなかったのに、突然下の名前で呼ばれて彼女は目を丸くして呆けた。

    「辞めないで下さい。見合いもしないで下さい」
    「あ、青八木君?」
    「俺、さんが好きだから。ずっと勇気がなくて、言えなかったけど。俺は子供かもしれないけど、でも」

     初めて会ったときから、好きなんだ。
     回りくどい言い方は俺らしくない。上着のポケットの中で握り締めたメモ紙がぐしゃぐしゃになる。拳を強く握って、俺は必死に訴えた。顔に熱が集中して、インハイの時とは違う暑さと緊張に頭がおかしくなりそうだ。
     俺と付き合ってください。口に出した瞬間、何も言わない彼女に、どんどん苦しくなる。

    「……俺じゃ、」

     やっぱり、子供だから。最近は歳の差カップルなんて珍しくも何ともないけど、一般的にはやはり、人によっても受け入れがたいものはあるだろう。俯く俺に、さんが手を伸ばした。

    「青八木君、結構喋るのね。あと、ストレートに物を言うのね」
    「!」

     項垂れた頭を撫でられて、弾かれたように顔を上げる。子ども扱いされてる? 本気にされてない? そう思うと余計に辛くなる。でもさんは俺の気持ちに気付いてか気づかずにか、更に続けた。

    「お見合い、断るね」
    「……え?」
    「青八木君が……はじめくんが、私をもらってくれるなら。断る理由ができたね」

     はにかみながらそう言って、破顔する。写真でしか見た事のない人に嫁ぐのは、嫌だったの。と、彼女が言った。

    「貴方は真っ直ぐだから、貴方に想われて私は嬉しい」

     にこりと微笑むさんの顔に、俺も自然と綻ぶのを感じる。と、そのとき、店の奥から豪快な笑い声。

    「良かったな青八木! おめでとう!」
    「たっ……田所さん!?」

     ここは、店の中だった。仕込みをしていた田所さんに全て筒抜けで、大袈裟な拍手をされた。なんて大胆なことをしたんだろうと思って穴に入りたい衝動に駆られたが、が嬉しそうだから恥は捨てることにする。

    「……ありがとうございます」

     結果を純太に報告すると、「俺、デートの口実を考えたはずなんだけど。婚約するとは思ってなかったぞ」と笑われた。
     その後はと、俺が大学を卒業してから一緒に住む約束をした。の母親が早くに結婚していたこともあって、すぐにでも籍を入れたほうが良いと実家で言われたらしいが、はゆっくりでいいから、と言った。俺は彼女のことをほとんど知らないから、そう言ってくれて有難かった。



    「いらっしゃい、はじめくん」
    「……うん」

     その関係が変わるのは、一瞬のことだ。
     客と店員という繋がりを捨てて、俺達は、もっと深い関係になった。

    End.





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