三年になった一君はよく喋るようになった。前だって喋らないわけではなかったのだけれど、本当に本当に必要なことしか口にはしなくて、どうして手嶋君と友達なんだろうと思うくらいに寡黙な人だった。まあ、正反対だから心惹かれるのかも知れないけれど。そんな一君と私は恋人同士である。元々寡黙でクールな印象を持つ一君を好きになって、ロードに乗って登校する姿を見て、彼が参加するレースにも行った。それほどまでに焦がれていて、文化祭の時に一緒に周りませんかって誘ったら、隣の手嶋君が彼の背中を押してくれた。後から聞いた話、実は一君も私を誘おうとしてくれていたらしい。ロードレースの応援に来ていた私を見て、好きになったと彼は言ってくれたのだった。
最近一君が喋るようになったのは多分、新たに部活に入部してきた子達に教えるために頑張っているんだろうな。そう思うととても愛おしい。去年だって先輩だったはずだけど、まだその上には先輩達がいて、自分のことだけに集中出来た一年だっただろう。だけど今年は三年で、手嶋君と一緒に皆を引っ張って行かなければならなくて。運動部でない私には知る由もないが、大変なことなんだろう。たまに差し入れを持って行くと、赤い髪で関西弁の二年生と元気な一年生の男の子が入り口まで、一君よりも真っ先にやって来て挨拶してくれる。運動部ってスゴい、そう言ったら一君はだからだよって答えた。どういう意味かわからなかったけれど、一君もそれ以上は何も言うつもりはないらしく、追及するのは止めた。
「こんにちは」
夏が近づいて、インターハイに向けて頑張っている一君や手嶋君のために、私に出来ることはないかなって考えた。ロードに疎い私が、マネージャーの幹ちゃんのようにサポートすることは難しい。一君は何もしなくていいと言ったけれど、やっぱり応援したい。ただ一緒に居られる時間もなくて、一人で何も出来ないのはあまりにも寂しい。しかしさっきも言った通り、私が出来ることなんて精々差し入れをすることくらいなんだけど。
「おー、来てくれたんだな」
「うん、手嶋君お疲れさま。これ差し入れね」
「悪いな、いつも。鳴子も青八木もめっちゃ食うからなー」
彼らが敬愛する田所さんの教えで、その身体を一年かけて鍛え上げた一君は、細い身体でとてつもなく大食漢だ。赤い髪の二年生、鳴子君もまた然り。
「知ってる。私のお弁当、田所先輩監修だもの」
先日も巨大なハンバーガーを早々と食していた一君を思い出して笑いながら口にすれば、手嶋君は小さい声で「マジか」と呟いた。そんな私と手嶋君のやり取りに気づいた後輩達がやって来る。
「先輩ちはっす!」
「こ、こんにちは!」
先ほど話に挙がった鳴子君と、少し消極的な丸眼鏡の小野田君。彼は昨年のインターハイで総北を優勝に導いた英雄でもある。一君はそんな彼らと合宿のインターハイメンバーを賭けたレースで負けて、当日は裏方としてチームに貢献した。その頃私はまだ想いを打ち明けてはいなかったので、最終日にこっそり応援に行ったくらいだったけれど。秋に付き合い出してから一君は、よくその時の話を私に聞かせてくれたのだ。小野田は本当に凄い、あいつのおかげで総北は優勝出来たんだと。
「さんは、今年のインターハイ見に来られるんですか? あ、青八木さんの応援に……」
「うん、そのつもりなんだけど……ダメかな? 一君に限らず、頑張ってる君達の応援もしたいんだけど」
「い、いえっ! 嬉しいです! ありがとうございますっ」
実際こうして見ると、小野田君はとても運動するタイプには見えない。実際にゴールするところも見ているけれど、腰が低くて丁寧な彼は、レースという争い事には向いていないからだ。純粋に走るのが楽しい、と笑う小野田君を見ていると私もつられて笑顔になる。
「……ふふ」
「えっ、え?」
小動物のような小野田君が可愛くてつい頭に手を伸ばしたくなる。真っ赤な顔であわあわと慌てる小野田君に、手嶋君はさっさと練習に戻れと告げた。鳴子君と小野田君が慌ててコースへと戻って行く。
「あ、それじゃ私、行くね」
「え? 青八木に会いに来たんじゃないのか?」
「……邪魔しちゃ悪いし。それに今日は図書館で勉強する予定だから」
それだけ言い残して、私は自転車競技部を出た。一君が練習中で良かった。一目見てしまったら、もっとずっと一緒に居たくなってしまうから。
図書館でノートと問題集を広げて問題を解いていく。一応受験生だし、志望大学も決まっているから一君がロードを頑張っているなら私は勉強を頑張ろうと思った。何かに取り組めば寂しい思いも忘れられると思ったからだ。今はデートらしいこともしていないし、会うのは学校の休み時間くらいなものだ。それでも、頑張っている彼の邪魔だけはしたくないから、私が我慢すれば良いだけだ。
図書館へ来てどれだけ経っただろうか。窓から差し込む光がオレンジ色だったので、もうすぐ閉館の時間だろうかと時計を見るために顔を上げれば、頭上に影が差した。
「あ、れ……一君?」
「……なんでだ?」
「え?」
練習はもう終わったのだろうか。見れば一君は珍しく汗をかいたままで、髪が濡れていた。
何も言わない内から何故と問われても、意味がわからない私は困惑する。司書の「間もなく閉館です」の声に、一君は「外に出よう」と私の手を引いた。私はノートと筆箱を抱えてそのまま一君に引っ張られる。
外に出ると、駐輪場には一君のロードバイクが停められていた。スタンドを外して押してくる一君を待っている間に、私は手にしていたノートや筆記用具を鞄の中にしまう。
自転車を押して戻ってきた一君が口を開いた。
「純太から聞いた。今日、差し入れ持って来てくれたって」
「あ、うん」
三日振りに見る一君の顔は明らかに不機嫌だ。怒りまではいかないものの、やはり私にはわからない。差し入れをして、何故一君が不機嫌になるのか。
「小野田や鳴子とは喋るのに、何故……俺とは会わない?」
「え、と……練習中だったし」
「全部純太に聞いてるよ。誤魔化さなくていい」
だったらわかっているのではないだろうか。私があえて一君に会わないようにしている理由が。
「一君、練習頑張ってるって手嶋君からも聞いてて……私がいたら、きっと邪魔になるから。私、一君の重荷にはなりたくないの」
私の方がずっとずっと一君を好きで、苦しくて。だからこそ、重たい私は捨てられてしまうんじゃないかって不安になる。いや、優しい一君はそんなことしないかも知れないけれど、その分、彼に負担がかかることは間違いのないことだ。
「は、間違ってる」
「……?」
「が最初に云ってくれたってだけで、俺だってが好きだ。邪魔とか、絶対に思わない」
「でも、」
「俺は」
私の言葉を一君が強い口調で遮った。いつも聞き手に回る彼の言葉は、いつだって真剣で胸に刺さる。
「……俺は、が鳴子や小野田と……純太としか会わずに帰ったって聞いて、すごく嫌だった」
「は、一君……」
「はまるで俺が同情で付き合ってるみたいに思ってるけど、俺はそこまで優しくない。ちゃんとが好きだし、嫉妬だってするよ」
嫉妬? 温和な一君から、聞くことのないと思っていた言葉が紡がれて私は目を丸くした。そして彼にしてみれば長い本音の言葉にも、私は驚いた。
「変な気はつかわないでいいから、本当に。寂しいならそう言ってくれた方が、俺も嬉しい」
一君がはにかみながらそんな風に言うから、私は嬉しくなって舞い上がって、一君の腕に抱きついた。突然のことに一君が驚いてロードごと傾きかけたが、一君は意外と逞しい手で私とロードを支えた。
「あ、そうだ」
「?」
「明日はあれ作って欲しい。田所さんのところのパンで」
が作ると何十倍も美味しく感じるだなんて、珍しく気障な台詞を口にする一君。誰の入れ知恵かなんて聞かなくてもわかる。
「手嶋君も手嶋君だけど、実行する一君も一君ね」
「……何でわかった?」
私はそんな一君が、やっぱり大好きなんだなあって自覚した瞬間でした。