もしもこの世界にわたしという人間が存在しなかったとして、君は一体誰を好きになるんだろう。
もしもこの世界にきみという人間が存在しなかったら、私は一体どんな人生を送っていただろう。
考えたところで、IFなんて話はありはしないのだ。
私はこの世界で生まれて手嶋純太という一人の人間に出会ったし、
純太もこの世界に生きて、わたしと言う一人の人間と巡り会った。
それは何も、珍しいことではない。そう、ありふれた日常の一部だったはずなんだ。
「別れよう、俺達」
純太がそう言い出すまで、少なくとも私はそう思っていて。彼の言葉を聞いた瞬間に、私の日常は音を立てて崩れていった。このとき、純太がどんな理由を並べ立てていたのかなんて覚えていない。彼の表情から、私が嫌いだとかそういう理由ではなかった気がするのだけれど、そんな理由なんてどうでも良くなるくらい、私の脳はただ「純太に捨てられた」という事実だけを刻んだ。
普通だったら「悪いところは直すから」とか「思い直して」なんて引き止めることも出来ただろう。いや、意思の硬い純太にそんな泣き落としは通用しないかも知れない。ただごめんと謝られて、それだけだろう。だったら、そんな情けないことはしないけれど。
「……うん」
自分でも何故了承してしまったのかわからないけれど、そう言うしか他に選択肢がなくて、ぼんやりとした意識でそんな風に呟いた。
私が何を言わなくてもやはり「ごめんな」と言って去って行った純太の背中を見つめながら、私は空を見上げた。呼び出された薄暗い公園に、綺麗な円に満たない、ちょっと欠けた月。それは私の心よりは満ちていて、きっと純太の心だったのかも知れないと思った。純太は恐らく、満たされていなかったのだ。
私と言う人間が純太の心の隙間に入り込んで、乱した。彼が乱れてくれることがとても嬉しくて私は愉悦感を得ていたけれど、彼は私の心を覗けなかったのだと思う。周囲を観察することに長けている彼でも、私の感情を垣間見ることは不可能だったのだ。
ごめんな、と告げられた言葉が頭の中を反響する。それは、どういう意味での言葉なのか。月を見ながら考えて、私は「解ってやれなくてごめんな」という風に解釈した。純太は私の気持ちがわからなくて、私を捨てることにしたのだと。
私が何も言わなかったから、彼も何も言わなかったのだろうか。
純太ばかりが悲しそうな顔をしていたけれど、純太は私が悲しくないと思っているのだろうか。
私だって、純太の気持ちがわからない。
「お前は青八木に似ているんだよな。口数が少なくて、割と無表情なところとか」
まだ、私達が友人と呼べる間柄であった時、純太はそんな風に言った。親友の青八木一君と私が似ていると、確かに言ったのだ。だから私は純太を好きになったし、純太も私を受け入れてくれたはずだった。青八木君と心を通わせる事の出来る純太なら、私のことも解ってくれるのでは、と。だけど、それも今日で終わったのだ。
結局純太は私を理解できずに一人で悩んで、苦しんで、罪悪感に苛まれて。今日こうやって別れを言いに来たのだって、苦渋の決断だったに違いない。何故なら純太は結局優しいのだ。だからこそ、最後まで私を悪く言うことはなかった。理解出来なかった自分を責めて、人に理解してもらおうとする努力を怠った私に対して謝罪を口にした。多分、悪いのは私の方なのに。純太に捨てられても仕方が無いほどに。
純太と付き合うまでに交際経験が無かった訳ではない。だが、結局私はいつも同じ理由で振られるのだ。表情が無くて人形のようだと。笑わないのが可愛くないのだと。だけど私は嬉しかった。誰かに告白されることも、デートの約束をしたときも。語彙が少ない私は、その幸せな気持ちを口にすることが出来なくて、いつも心の奥で留めて飲み込んでしまう。だから、愛想を尽かされても仕方が無いのだということは解るのだ。
純太は青八木君と私が似ていると言った。口数が少なくて、割と無表情だと。だけどそれは間違いだって今気づいた。青八木君は"割と無表情"でも、人間で。私は、人形らしくて。割とではなくて、無表情で。青八木君の感情を読み取れる純太でも、わからないくらいに。
「月が、きれいだよ……純太」
もう姿が見えないその人に言葉を投げかける。彼は明日から、また学校に行くんだろう。ロードバイク乗りの彼は近々レースを控えていると言っていた。私は、彼とは学校も違うから。会うことはきっとないんだと思う。
純太の心を現す十三夜月は、私をわらっているようだった。また、ダメだったのかと。そう、私はまた失敗したのだ。純太という人間の心に入り込もうとして、追い出された。住処を探すネズミのようだと思って、心の中で自嘲する。
月はいつ見ても美しく輝く。遠くて届かないのに、いつもそこにある。まるで純太みたいに。
息を吸い込んで、数秒間止める。
ああ、このまま永遠に呼吸を止めてしまえたら、楽になれるのだろうか。誰からも愛されなくても、苦しくなくなるのかな。
純太は私のこと、本当はどう思っていたのだろう。少しでも、好きでいてくれたかな。私は、好きだった。手嶋純太という、一人の男を。
月を見上げながら、一歩足を踏み出す。別に帰ろうとしたわけではなくて少し身動ぎしただけだったけれど、その瞬間に足元でくしゃりと音がした。今まで上ばかり見ていた視線を下に向けると、そこには潰れた花があった。
あまり見慣れない白い綺麗な花を、私は踏みつけていた。夜にだけ咲くその花は、儚く神秘的な美しさがある。その神秘を踏み潰した冒涜的な私の足。まるで、これは、まるで、そう。
純太の心を弄んで穢した、私。
息が苦しくなって、また純太が恋しくなって空を見上げたけれど、あいにく月は雲に隠れて暗闇だけがそこに広がっていた。拒まれた私は、その場に立ち尽くす。
涙が、こぼれた。