傷だらけの弱った体に、海水が染み込んでいく。痛くて泣き叫びたくて、でも仮面に覆われている瞳からは涙なんて出てこない。それでいいんだと、思えるくらいに僕は痛みを欲していた。渇望、と呼べるほどに。
小学校から休みがちだったけれど友達は多いほうだ。いつも笑っていたから、皆話しかけてくれた。中学に上がっても、少しは欠席が減ったけれど、その延長で遅刻は多いまま。それに慣れてしまっていたから、きっとどこか余裕があったんだろう。みんな許してくれるって。そのうち、僕がいなくても「ああまたか」って、呆れられておしまいだ。
「真波君ってロードレーサーなの?」
「うん、そうだよ」
皆一様に言うんだけど、そうは見えない、らしい。
同じクラスのさんは、委員長に聞いたらしい俺の情報についてそう尋ねてきた。俺が答えると、満足げに笑って「そうなんだ」って。それからすぐに俺から離れて友達の輪に戻っていく。どうやら、ウワサの真偽を確かめたかっただけのようだ。
会話の端々から「本当だって」「意外」「でも」「やっぱり」なんて聞こえてきて、少しだけ複雑な気分になる。
「この学校自転車競技部ないから、大変じゃない?」
「……べつに、俺はひとりで走ってるから」
さんは友達の輪の中から俺に振り向いて、口にした。てっきり会話は終わったと思っていた俺は驚いて顔を上げて、それから答える。ふーん、そうなんだ。間延びした、適当な相槌。結局、俺に対した興味もないくせに。
俺があまり学校にいないから、学校が好きじゃないから、皆俺が学校にくるとどうしたのって顔で見る。そんなに不思議? 俺だって得意じゃないけど学校は来ないと親が心配するし、別にどうでもいいって思ってるわけじゃないのに。委員長がお節介焼きで俺を迎えに来るからっていう理由もまあないわけじゃないけど。
小学校で競技用の自転車に出会って、ロードレースに興味を持ち始めたのはいいけどこの学校に自転車競技部はなくて、でも俺は別にそれでもかまわなかった。朝でも晩でも自由に走って、地元のレースに参加して。でも、高校では競技部のあるところへ行こうってもう決めている。そのためなら、きっと苦手な勉強も苦じゃなくなるから。たぶん、そこにはこの学校の人は、さんは、いないんだろうけど。
「今度見に行ってもいい? そのレース」
「……え」
「宮原ちゃんと。真波君の自転車で走ってるとこ、見てみたいから!」
さんは明るくて、可愛い。周りに自然と人ができるけど、俺と違うのは自分から積極的に他人に関わろうとするところ。俺は来るもの拒まず去る者追わずだから、ひとりでいることも多い。よく話しかけてくるのは委員長くらいだ。
そのさんが、俺のレースを見たいって言ってくれた。だけど、その視線の裏には何がある? きっと、その後ろで聞き耳を立てている女子集団と、皆で来るんだろう。真剣に走っている俺を、笑いに。
「別に、いいけど」
いいわけない。軽い気持ちで見にこられても迷惑なだけだ。でも、さんだけならいいけどなんて言えるわけない。だったら、好きに笑えばいいよ。
「レース格好良かったよ。初めて見たけど、迫力あるね」
レースが行われた翌日、学校で会ったさんはそう俺に話しかけてきた。あの時レース中に視界の端に映ったのは委員長と、さんと、数名の同級生。男女混合のグループで、何人かは俺のキツめのジャージを見て笑った。ああ、結局はそんなもんだろ。知っていたよ。でも、委員長とさんは真剣に俺を応援してくれていたから、そこに少しだけ救われた。今はまだまだだけど、これからもっと早くなって、大きな大会でも優勝できるくらいのレーサーになりたい。上り坂では誰にも負けないと、胸を張れるように。だって俺には、それしかないんだ。
「さん、向こうで呼ばれているわよ」
「あ、ありがとー宮原ちゃん。昨日はありがとね!」
委員長に笑顔で答えてからさんは仲の良いクラスメイトの元へ駆けていく。その背中を見ながら、俺は溜息を吐く。委員長が、「山岳」小さく呟いた。
「……何? 委員長」
「ううん、なんでもない。レースお疲れさま」
委員長が何を言いかけたのか、何となくわかる。でも俺だってよくわからないのに、聞かれても答えられるわけがなかった。
この気持ちは恋なのか。いや、違う。違うことにしておかなきゃ、きっとこの先も苦しいままだ。欲しくて欲しくてたまらないのに、届かない。ただ痛みだけを与えられて、報われないなら必要ない感情だ。俺は、山にだけ恋をしていればいい。
さんがまた、遠くで俺を呼ぶ。
「真波君、今度また、私にレースのこと教えてね!」
俺がずっと欲しくて望んでいたことを、君は知らずに歩いていくんだ。きっと、これからも。
「別に、いいけど」
君はそうやって知らないふりで、俺を嗤うんだろう。