Story

    コール・ミー





    「……キルア」

     細い指先が背中をなぞる。ずっと焦がれていた温もりのはずなのに、どうしてか身動きが取れない。振り向くこともせずに、名を呼ばれた少年はただ、びくりと肩を震わせた。もう一度、女が呼んだ。「キルア」と。

    「……な、んだよ」
    「どうして、こっちを見ないの。何故、私と目を合わせないの?」

     その問いにも、答えなんかない。少年からは見えないが、何の返答ももらえないことに対して女はくしゃりと顔を醜く歪めた。それでも泣きそうな顔から、瞳からは、涙がこぼれ落ちることはない。

    「あんた、私の顔、見なくなったよね……」

     悔しい。女は唇を強く噛み締めて、キルアの背中につけられた無数の傷痕をもう一度なぞった。

    「……っ」
    「痛くないの? ねぇ」

     しなる鞭が彼の背中に走るのを見た。蚯蚓腫れのような傷痕が痛々しい。それをつけたのは、彼の実兄であることも知っている。自らの罰と、キルアがそれを無言で受け入れていたのも。

    「キルアが悪いよ……私達を捨てて、出て行ったりするから」

     ハンター試験から帰宅したキルアは、母親や兄達とほとんど会話しようとはせず、また、食事も摂らずに地下室に閉じ込められたままだった。

    「あんた、には……関係ないだろ」

     関係ない。そう突き放された彼女は、「そうだね」と消え入りそうな声で呟いた。キルアにとって、目の前の女は他人よりも近くて家族よりも遠い存在。しかし、どんなに望んでも決して手に入らない。それがわかっているから、やり切れないのだと、キルアはひとり、誰にも気づかれないように薄く自嘲に近い笑みを浮かべた。

    「……さっさと兄貴のところに戻れよ」
    「イルミは出かけたわ。部屋に戻っても、私は独りだもの」

     イルミ。彼女の唇が紡ぐ長男の名前は、母親や兄弟が口にするよりも重々しい響きを秘めていた。ゾルディック家の兄弟達と彼女は、家族ぐるみでの付き合いがある幼馴染だった。数少ない"殺し屋一家"の一員として、友達もいない子供達は、唯一互いを求め合った。閉鎖的で広い敷地内を走り回るのも、いつもの遊びだった。しかし、それはまだ自分が子供だったからだ。キルアはそう理解したのだ。幼馴染が兄イルミの婚約者となった瞬間に。だからこそ、自分の抱く恋慕を悟られないように、家を飛び出した。それしか、幼い少年には感情を発散する術が見つからなかった。

    「どうして、だろ」
    「……」
    「なんで、昔のままじゃいけなかったのかな……私が、女だから?」

     たとえばそれが、少年同士であったなら。こうして婚約することもなく、ずっと昔のまま対等な友人としていられただろうか。なんて、考えたところで全くの無意味なのだが。

    「知るかよ。俺には……関係ない」
    「行かないで、キルア」

     仲間が迎えに来たと、母のキキョウや執事などが話していたのも聞いて、女は全て理解していた。キルアがもうすぐ居なくなってしまうことも、もう此処へは戻ってこないだろうということも。全て理解した上で、それでも彼が留まることを願って口にするのだ。

    「あなたが家を出て行ったとき……本当に、苦しかった。いやだ、そんなのはもう。ずっと此処にいてよ」
    「んな、こと言ったって……お前はっ!」

     ずっと背を向けて話を聞いていただけのキルアが、勢いよく振り返った。立ち上がり、ハッとして息を呑んだ女を見下ろす。唇を噛み締めて、行き場のない思いを吐き出すように。

    「お前はもう、兄貴のなんだから! 俺にどうしろっていうんだよ! どれだけ望んだって、手に入らないのに……」

     だけどあいつらは違う。俺が望まなくても、相手が俺を望んでくれた。
     搾り出すように口にしたキルアの言葉に、女の頬を一筋の涙が伝う。どうしてこんなことになったんだろう、なんて同じことを繰り返す。ああ、でも無知な自分にはそれしかできないこと。
     親同士が婚約を決めて、意外にもイルミはこれを承諾した。イルミのことは勿論嫌いではない。仲は良いと思っている。だが、自分が想いを募らせていたのはキルアに対してだったのだ。

    「……昔に戻れたら、いいのに。何も知らない子供の頃に」
    「もう、いい大人だろ……物事の分別くらいつけろよ」

     イルミとの年の方が近いはずなのに、十二の少年に諭されるとは。女は唇に笑みを浮かべて、そうだねと呟いた。無言になった部屋に、執事から「お友達がお見えです」との報せが入る。もう既に父であるシルバとの話はついていて、キルアは家を出ることを決めていたのだ。

    「じゃあな」
    「……キルア」

     部屋を出ようとしたキルアを呼び止める。

    「最後に、私の名前……呼んで」

     いつしか、距離を置くようになって、顔を見なくなって。キルアは、名前すら呼んでくれなくなった。これで諦めるから、最後にするから。そう懇願した娘に、キルアはもう振り向くことはなかったが、その代わりに、

    「じゃあな。……」

     それだけ呟いた。

    「ばいばい……キルア」

     細く涙を流し続けながら、はドアが閉まる音を静かに聴いた。

    End.





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