Story

    君は知っているのか





     目の前に広がる"青"という色を、私は空のようだとあらわした。青がどんな色か、皆知っているのに、自然界の中に青がどれだけ存在しているのか、実は何も知らないということを知った瞬間、私は驚愕した。空のような薄青は、空色とか、水色とかいうらしい。おかしな表現だとは思わないか。水色とは言えど、自然界の水は光の屈折でそう見えているだけで、掌で掬ったそれは無色透明なのに。それでは、呑み込まれそうなほどに深い、この青という色は、何を表す色なのだろう。

    「あなたの瞳はきれいな青ね」
    「? 何、いきなり」

     隣で座学を受けるアルミンが、困惑した表情で返した。まぁ当然の反応だとは思う。それに対して私はただ別に、と返したのみで、会話が続くことはなかった。
     綺麗な瞳だと、思った。それが青い色だということも知っていた。けれど、この地に見える青という色には、自然のものは一つもないのだ。

    「青って……何の色なのかしら」

     ぽつり、呟いた言葉は、今度は届かなかったようで、真剣に黒板を見つめるアルミンは答えてはくれなかった。
     外を歩いて町を眺めれば、赤い屋根が軒並み連なっている。くすんだ白い壁と、赤茶に近い紅葉のような屋根。それらは、よく見慣れた色だった。赤は血の色。枯れはじめた葉の色。実った果実の色。黒や茶は人の髪の色。白は雲や大根の色で、緑は若葉の色。けれど、やはり青という色は、見当たらない。どうして知っているのか、不思議に思うほどに。

    「まだ考えているの?」
    「……だって、どうしても解らないのだもの」

     次の訓練場へと向かう最中、アルミンが苦笑する。アルミンと一緒に教室を出てきたエレンは、何のことだ? と首を傾げたけれど。わからなくていい。

    「ひとつだけ、あるよ。深い青」
    「え?」
    「もう少し……次の訓練が終わったら、見られると思うけれど」

     意味深にアルミンがした発言に、私は訝しげに思いながらも素直に従った。それ以上問い質すこともせず、訓練に集中することにした。
     森の中を三時間走り続けて、鳩尾が攣りそうになりながらようやく呼吸を整えたらしいアルミンは、宿舎へと向かう前にその場に座り込んだ。そして、促されるままに私も座り込む。

    「ほら、空を見て」
    「!」

     闇に染まり始めた空は、黒くなる前に、深い青だった。早朝の薄水から始まり、日中は濃水色と白い雲で覆われて。夕方には陽の光で橙に見える。そこから更に進めば、空は夜になるためにその色を濃くしてゆくのだ。

    「知ってる?」
    「え?」
    「外の世界のこと」

     アルミンが、空を見つめながら呟く。私は、知らないと正直に答えた。外の世界なんて、考えたことも無かったのだから。

    「外は、大半が海っていう、水で覆われているんだ」
    「……ウミ」

     初めて聞く単語だ。私は、座学はアルミンほどではないにしろそれなりに得意であると自負しているし、いろいろな知識を学ぶのは好きだ。しかし、アルミンが言うような学識、私には無かった。

    「海は、この世界は、青いんだって……」
    「……世界の、色?」

     ふわり。足元が浮かんだような気がして、突然穴が開いて底へ落ちるような感覚に襲われる。溺れる。瞬間的にそう思った。壁の中には川しかなくて水は少ないから、娯楽のために泳いだりもしたことがないのだから、溺れるなんて感覚もあるはずないのに。

    「あなたは、知っているの?」
    「まさか。昔、祖父の本を盗み見ただけだよ。でも、いつか見たいとは思ってる」

     空の青を見つめたアルミンは、どこか遠くを真っ直ぐに見ていて、それが嘘ではないと、直感的に感じた。ならば、私とて答えは決まっていた。

    「私も見たい。……本物の、青」

     そう言って笑ったら、アルミンは一度目を丸くして、それから嬉しそうに微笑で返した。

    「一緒に見られたら、いいね」

     外の世界を見たいという夢を持ったら、異端者だと罵られ、白い目で見られる。そんな過去もあったけれど、ようやく夢への一歩を踏み出せる。そうアルミンは言った。自分は弱いが、決して諦めたくはないと。だから私は、そんな彼に言うのだ。

    「夢を持っている人は、弱くなんかないよ」

     誰にも曲げられない強い意思は、暴力になど屈しない。それだけで、賞賛に値するほど強い。現に、私はアルミンの言葉に惹かれて、同じ夢を見始めたのだから。

    「ウミを、見に行こう……一緒に」



     そんな会話から、幾年過ぎただろうか。何人の仲間が命を落としただろうか。私は、私たちは、今目の前に広がる世界に歓喜し、涙を流した。

    「……こんな世界、あるなんて知らなかった」

     空の宵闇とはまた違う、まっさらな青。どこまでも広がってゆきそうなほど、広大な世界。私は、アルミンを見た。声も出ないほど驚きを顔に出し、その手は喜びに震えていた。

    「世界は、こんなにも青いのね」
    「すごいな……僕らは、今までこんなにも素晴らしいものを、知らずに生きていたのか」

     呆けている兵団の皆を置いて、一歩、一歩、海へと近づく。風が運んでくる海のにおいは、独特で。磯の匂いだと、アルミンが教えてくれた。風のせいなのかわからないが、海は波打って陸へ押し寄せたり引いたりする。恐る恐る近づいて、波際に屈み込むと、私は指先を海に入れた。

    「……冷たい」

     やはり、海も水の一種なのだ。真夏なのに温度は冷たくて、ひやりとした感覚が指先から全身へと広がっていく。色に温度があるなんて考えたことも無かったけれど、この日私は、青は冷たい色なのだとはっきり確信したのだった。
     数百年もの昔には、当たり前のように目にしていた、常識だったであろう目の前の新発見に、私は全身を震わせる。

    「ねぇ、知ってた?」
    「え?」

     浸けていた指先を引き上げて立ち上がり、今度はブーツを脱ぎ捨てて裸足になる。はねた水で衣類が濡れるのもかまわず、今度は両足を海につけた。

    「ほら、私は知ってる。海の色、磯の匂い、海の温度――今、知った」

     ずっと、焦がれていたものだから。アルミンは眉尻を下げて、満面の笑みで、同じように海へと入った。
     心地の良い風が吹く。兵団の面々も、次第に動き出し、皆思い思いに"海"を満喫していた。しかし、私は、私たちは、まだ知らない。

    「まだ、見ていないから。この世界の広さ――全てを」

     これから、知ることができるだろうか。君と、この世界を見ることができるでしょうか。

    「いつか、見に行こう。世界の全てを」

     そう言って隣に並んだアルミンの瞳を見ながら、私は言うのだった。

    「……あなたの瞳は、海の様に綺麗な青ね」

    End.





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